多く、予かの地にあった時も、一人かくして露国より逃げ来ったを見たと。
 ベーコン卿の『シルヴァ・シルワルム』に、犬が犬殺しを識るは普通に知れ渡った事で、狂犬荒るる時|微《ひそ》かに卑人を派して犬を殺さしむるに、かつて犬殺しを見た事もなき犬ども集り来て吠え奔《はし》ると。『程氏遺書』に曰く、犬屠人を吠ゆ、世に伝う、物ありこれに随うとは非なり、これ正に海上の鴎《かもめ》のごときのみと。これは宋人が屠者には殺された犬の幽霊が降《つ》き歩く、それを見て犬が吠えるといったに対して程子は、『列子』に見えた海上の人鴎に親しみ遊んだが、一旦これを捕えんと思い立つと鴎が更に近付かなんだ例に同じく、屠者に殺意あれば犬直ちにこれを感じ知ると考えたのだ。予もかつて、ある妖狐を畜《か》って富を致す評ある人が町を通ると、生まれて数月なる犬児が吠え付き、その袖や裾に噛み付いて息《や》まず、それを見いた飼主が気の毒がってその犬児を棄てた始終を黙って見届けた事がある。狐に富を貰《もら》うなどの事は措《お》いて論ぜず、とにかく犬などには人に判りにくい事を速やかに識る能力があるらしい。ちょうど大人の眼に付かぬ微物を小児が疾《と》く見分くるようなもので、大いに研究を要する事だ。それから『大清一統志』三五五、〈意太利亜《イタリア》の哥而西加《コルシカ》に三十三城あり、犬の能く戦うを産す、一犬一騎に当るべし、その国陣を布くに、毎騎一犬を間《まじ》う、反《かえ》って騎の犬に如《し》かざるものあり〉。その頃の西洋地理書から訳出したものらしいが、欧州の博識連へ聞き合したるも今に所拠が知れぬ。御存知の方は教示を吝《おし》むなかれ。
 陶淵明の『捜神後記』上にいわく、会稽句章の民、張然、滞役して都にあり、年を経て帰り得ず、家に少婦ありついに奴と私通す、然都にありて一狗を養うに甚だ快し、烏竜と名づく、のち仮に帰る、奴、婦と然を謀殺せんと欲す、飯食を作り共に下に坐し食う。いまだ※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《く》うを得ず、奴戸に当り倚《よ》って弓を張り箭《や》を挟み刀を抜く、然、盤中の肉飯を以て狗に与うるに狗※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]わず、ただ睛《ひとみ》を注ぎ唇を舐《ねぶ》り奴を視《み》る、然、またこれを覚る、奴食を催す転《うた》た急なり、然、計を決し髀《もも》を拍《う》ち大いに喚《よ》んで烏竜と白《い》う、狗声に応じ奴を傷つく、奴刀を失し伏して地に倒る、狗ついに奴の頭を咋《く》う、然、因って刀を取って奴を斬り、婦を以て官に付しこれを殺すと。これから出たらしい噺《はなし》が本邦にもある。『峰相記』にいわく、粟賀の犬寺は当所本主秀府という高名の猟師なり、かの僕秀府の妻女を犯しあまつさえ秀府を殺して夫婦とならんと密契あり、郎従秀府を狩場へ誘い出して山中にて弓を引き矢を放たんとす、秀府が秘蔵の犬大黒小黒二疋、かの郎従に飛び掛かり左右の手を喰わえて引っ張る、秀府刀を抜き飛び掛かりて仔細を尋ぬるところにありのままに承伏す、郎従を殺害し妻妾を厭却して道心を発し出家入道す、臨終に及ぶ時男女子なき間、所帯を二疋の犬に譲り与えおわる、犬二疋死後領家の計らいとしてかの田畠を以て一院を建立《こんりゅう》し、秀府並びに二疋の犬の菩提を訪う。堂塔僧房繁昌し仏法を行ず、炎上の時、尊像十一面観音、秀府二疋の犬の影像、北山へ飛び移る。その所を崇めて法楽寺と号すと云々。犬に遺産を与えた例は西土にもある。
 晋の大興二年呉人華降猟を好み、一快犬を養《こ》うて的尾と号し常に自ら随う。隆、後《のち》江辺に至り荻《おぎ》を伐る。犬暫く渚に出次す、隆大蛇に身を巻かる、犬還って蛇を咋い殺す。隆|僵《たお》れて知るところなし、犬|※[#「彳+旁」、241−16]徨涕泣《ほうこうていきゅう》走って船に還りまた草中に反《かえ》る。同伴怪しみ随い往き隆の悶絶せるを見、将《ひき》いて家に帰る。二日の間犬ために食わず、隆、蘇りてすなわち始めて飯を進む、隆愛惜親戚に同じ(『淵鑑類函』四三六)。『今昔物語』二九に、陸奥《むつ》の賤民数の狗《いぬ》を具して山に入り大木の洞中に夜を過す、夜更けて狗ども皆伏せたが、年来飼った勝《すぐ》れて賢い狗一つ急に起きて主に向って吠えやまず、後には踊り掛かって吠ゆ。太刀抜きて威《おど》せどいよいよ吠え掛かる、こんな狭い処で咋い付かれてはと思うて外へ飛び出る時、その狗主人がいた洞の上方に踊り上り物に咋い付く、さては我を咋《か》むとて吠えたでないと知って見ると洞の上から重き物落ちる。長《たけ》二丈余太さ六、七寸ばかりの蛇が頭を狗に咋われて落ちたのだった。さては我命を救うたこの犬は無上の財宝と知って狗を伴れて家に帰った。その時狗を殺したら狗も自分も犬死にすべきところじゃったとある。
 この話が移り変って『和漢三才図会』六九には、犬頭社は参河《みかわ》国上和田森崎にあり、社領四十三石、犬尾社は下和田にあり、天正三年中領主宇津左門五郎忠茂猟して山に入る、家に白犬ありて従い走り行く、一樹下に到り忠茂|俄《にわか》に眠を催す、犬傍にありて衣の裾を咬《くわ》えて引く、やや寤《さ》めてまた寐《い》ぬれば犬しきりに枕頭に吠ゆ。忠茂熟睡を妨ぐるを怒り腰刀を抜きて犬の頭を切るに、樹梢に飛んで大蛇の頭に咋い付く、主これを見て驚き蛇を切り裂いて家に還り、犬の忠情を感じ頭尾を両和田村に埋め、祠を立てこれを祭る。家康公聞きて甚だ感嘆す。かつ往々霊験あるを以て采地を賜う。けだし宇津氏は大久保一族の先祖なりと出し居る。『今昔物語』二六に、参河国の郡司妻二人に養蚕をさせるに、本妻の蚕皆死んで儲けもなくなったので夫も寄り付かず、従者も逐電して淋しく暮す内、養いもせぬ蚕一つ桑の葉に付いて咋うを見付けて養う内、家に飼った白犬がその蚕を食うた。蚕一つすら養い得ぬ宿世《すくせ》を哀しみ犬に向いて泣きいると、この犬鼻ひると二つの鼻孔より白糸二筋出る。それを引いて見ると陸続として絶えず、四、五千両巻きおわると犬は死んだ。これは、仏神が犬に化し、われを助くる事と思うて、屋後の桑木の下に埋めた。夫の郡司たまたまその門前を通り、家内の寂寞たる様子を憐み、入りて見れば妻一人多くの美しい糸を巻きいる。夫問うて委細を知り、かく神仏の助けるある人を疎外せしを悔い、本妻の方に留まって他の妻を顧みず、かの犬を埋めた桑の木にも繭を作り付けあるを取りて無類の糸を仕上げた。やがて国司を経て朝廷に奏し、かの郡司の子孫今にその業を伝えて犬頭という絶好の糸を蔵人所《くろうどどころ》に納めて、天皇の御服に織ると見ゆ。すこぶる怪しい話だがとにかく三河に昔犬頭という好糸を産し、こんな伝説もあったので、犬頭社は本《もと》その伝説の白犬を祀《まつ》ったのを後に大蛇一件を附会して犬尾社まで設けたのでなかろうか。
 犬が大蛇を殺して、主人を助けた話は、西洋にもある。ベーリング・グールドの『中世志怪』六章や、クラウストンの『俗談および稗史《はいし》の移動変遷』二巻一六六頁以下に詳論あり。今大要を受け売りと出掛ける。十三世紀の初めウェールスのルエリン公、その愛犬ゲラートをして自身不在ごとにその幼児を守らしめたが、一日外出して帰って見ると揺籃に児見えず。そこら血だらけで犬の口に血が附きいた。さてはわが子はこの犬に啖《く》われたと無明の業火直上三千丈、刀を抜いてやにわに犬を切り捨てた。ところが揺籃の後ろに児の啼き声がする。視ればわが子は念なくて、全く留守宅へ狼が推参して児を平らげんとする処をこの犬が咋い殺したと判った。公、大いに悔いて犬のために大きな碑を立て、これを埋めた地を犬の名に基づいてゲラートと号《な》づけたそうだ。中世欧州で大いに行われた教訓書『ゲスタ・ロマノルム』にはいわく、フォリクルスてふ武士妻と婢僕を惣伴《そうづ》れで試合に出掛け、ただ一人の児を揺籃に容《い》れ愛する犬と鷹を留め置く。城辺に棲む蛇来て児を嚥《の》まんとすると、鷹、翅を鼓して犬を起し、犬、健闘して蛇を殺し地に伏して疵《きず》を舐る。所へ還った乳母は蒼皇《そうこう》犬が主人の児を啖《く》ったと誤解し、逐電の途上主人に遭ってその通り告げる。主人大いに瞋《いか》って来り迎うる犬を斬り殺し覆《くつがえ》った揺籃を視ると、児は無事で側に蛇殺されている。フォリクルス早まったと気付いても跡の祭り、槍を折り武道を捨て聖土を巡拝してまたまた還らなんだと。一三七四年筆する所、ペルシャの『シンジバッド』十七に述ぶる所もほぼ同前だが、これ犬の代りに猫としある。
 熊楠いわく、馬文耕の『近世江都著聞集』四に、京町三浦の傾城《けいせい》薄雲|厠《かわや》へ往くごとに猫随い入る。その美容に見入りしならんとて打ち殺すべき談合しきりなる処に、一日かの妓用達しに之《ゆ》くと猫例のごとく入らんとす。亭主脇差抜きてその首を打ち落すに、たちまち飛んで厠の下へ潜《もぐ》り行方知れず。尋ね見るに厠の下の隅に大蛇ありしに猫の首喰い付き殺しいた。全くこの蛇常に薄雲の用達す所見込みしを気遣うて猫がかの妓に附き添ったと知れ、薄雲流涕してその骸を西方寺に納めて猫塚を築いたとある。これらの話種々異態あれどもと仏説に出たのだ。
『摩訶僧祇律』三にいわく、過去世に婆羅門あり銭財なき故、乞食して渡世す。その妻、子を産まず、家に那倶羅《なくら》虫ありて一子を生む。婆羅門これを自分の子のごとく愛し那倶羅の子もまた父のごとく彼を慕う。少時して妻一子を生む。夫いわく那倶羅虫が子を生んだはわが子生まるる前兆だったと。一日夫乞食に出るとて妻に向い、汝外出するなら必ず子を伴れて出よ、長居せずと速やかに帰れと命じた。さて妻が子に食を与え隣家へ舂《うす》つきに往くとて、子を伴れ行くを忘れた。子の口が酥酪《そらく》で香《にお》うを嗅《か》ぎ付けて、毒蛇来り殺しに掛かる。那倶羅の子我父母不在なるに蛇我弟を殺さんとするは忍ぶべからずと惟《おも》い、毒蛇を断って七つに分ち、その血を口に塗り門に立ちて父母に示し喜ばさんと待ちいた。婆羅門帰ってその妻家外にあるを見、予《かね》て訓《おし》え置いたに何故子を伴れて出ぬぞと恚《いか》る。門に入らんとして那倶羅子の唇に血着いたのを見、さてはこの物我らの不在に我児を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]い殺したと合点し、やにわに杖で打ち殺し、門を入ればその児庭に坐し指を味おうて戯れおり、側に毒蛇七つに裂かれいる。この那倶羅子我児を救いしを我善く観《み》ずに殺したと悔恨無涯で地に倒れた。時に空中に天あり偈《げ》を説いていわく、〈宜しく審諦に観察すべし、卒なる威怒を行うなかれ、善友恩愛離れ、枉害《おうがい》信に傷苦〉と。那倶羅(ナクラ)は先年ハブ蛇退治のため琉球へ輸入された英語でモングースてふイタチ様の獣で、蛇を見れば神速に働いて逃さずこれを殺す。その行動獣類よりも至ってトカゲに類す(ウッドの『博物図譜』一)。従って音訳に虫の字を副《そ》えて那倶羅虫としたのだ。『善信経』には黒頭虫と訳し居る。

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 さきに昔|播磨《はりま》国で主人を救うた犬のために寺を建てた話を出したが、その後《のち》外国にも同例あるを見出したから述べよう。十四世紀にロクス尊者幼くして信念厚く苦行絶倫で神異なり。十二歳の時父を喪い遺産を挙げて貧人に施し、黒死病大流行に及び、イタリアに入ってローマ等の病院で祈祷また単に手を触るるのみで数千万人を救うたが、因業は聖者も免れ得ぬものでついに自ら黒死病に罹《かか》り、ピアチェンズアの町から逐《お》い出され林中に死に瀕す。その時貴人ゴタルズスの犬日々主家の麪包《パン》を啣《くわ》え来ってこれを養い、またその患所を舐《ねぶ》り慰めた。主人怪しんで犬の跡を付け行きこの事を見て感心し、種々力を尽してついに尊者を元の身に直した。それから尊者生まれ故郷仏国のモンペリエへ帰り国事探偵と疑われ、一三二七年八月十日牢死した。生前黒死病人この尊者の名を呼べば必ず愈《なお》ると上帝の免許あったというので、仏・伊・独・白・西・諸国にこれ
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