児見えず。そこら血だらけで犬の口に血が附きいた。さてはわが子はこの犬に啖《く》われたと無明の業火直上三千丈、刀を抜いてやにわに犬を切り捨てた。ところが揺籃の後ろに児の啼き声がする。視ればわが子は念なくて、全く留守宅へ狼が推参して児を平らげんとする処をこの犬が咋い殺したと判った。公、大いに悔いて犬のために大きな碑を立て、これを埋めた地を犬の名に基づいてゲラートと号《な》づけたそうだ。中世欧州で大いに行われた教訓書『ゲスタ・ロマノルム』にはいわく、フォリクルスてふ武士妻と婢僕を惣伴《そうづ》れで試合に出掛け、ただ一人の児を揺籃に容《い》れ愛する犬と鷹を留め置く。城辺に棲む蛇来て児を嚥《の》まんとすると、鷹、翅を鼓して犬を起し、犬、健闘して蛇を殺し地に伏して疵《きず》を舐る。所へ還った乳母は蒼皇《そうこう》犬が主人の児を啖《く》ったと誤解し、逐電の途上主人に遭ってその通り告げる。主人大いに瞋《いか》って来り迎うる犬を斬り殺し覆《くつがえ》った揺籃を視ると、児は無事で側に蛇殺されている。フォリクルス早まったと気付いても跡の祭り、槍を折り武道を捨て聖土を巡拝してまたまた還らなんだと。一三七四年筆
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