《きのとい》か庚子《かのえね》で辰の歳じゃない。『慶長見聞集』の発端に見えしは、今三浦の山里に年よりへたる知人あり、当年の春江戸見物とて来りぬ。愚老に逢いて語りけるは、さてさて目出たき御代かな、我ごとき土民までも安楽に栄え美々しき事どもを見きく事のありがたさよ、今が弥勒の世なるべしという。実《げ》に実に土民のいい出せる詞《ことば》なれども、全く私言にあるべからずと記せるなど考え出すと、昔は本邦でも弥勒の平等無差別世界を冀《こいねが》う事深く、下層民にまで浸潤し、結構な豊年を祝い、もしくは難渋な荒歳を厭うことは、一度ならず私《わたくし》に弥勒と年号を建てたらしく、例の足利氏の代に多く起った徳政一揆などの徒が、支那朝鮮同様弥勒仏の名を仮って乱を作《な》せし事もあったのだろう。二月十六日の『大毎』紙に、綾部《あやべ》の大本《おおもと》に五六七殿というがあるそうで、五六七をミロクと訓《よ》ませあった。かつて故老より亀の甲は必ず十三片より成り、九と四と合せば十三故、鼈甲《べっこう》で作る櫛《くし》を九四といい始めたと承ったが、江戸で唐櫛屋《とうぐしや》を二十三屋と呼んだは十九四《とくし》の三数を
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