の韓山童乱を作《な》し、弥勒仏の出世を名となし、無頼の悪少を誘集し、香を焼《た》き、会《え》を結び、漸々|滋蔓《じまん》して淮西の諸郡を陥れ、それより陳友諒・張士誠等の兵|尋《つい》で起り、元朝滅亡に及んだ次第を述べ居る。本朝にも弥勒の平等世界を唱えて衆を乱した事歴史に見ゆとは何を指すのかちょっと分らぬが、『甲斐国妙法寺記』に、永正三|丙寅《ひのえとら》、この年春は売買去年冬よりもなお高直《こうじき》なり。秋作はことごとく吉《よし》、ただし春の詰まりに秋|吉《よ》けれども、物も作らぬ者いよいよ明けし春までも貧なり。この年半ばの頃よりも年号替わるなり云々とありて、永正四|丁卯《ひのとう》、弥勒二年丁卯と並べ掲ぐ。山崎|美成《よししげ》の書いた物にこの年号の考あったと覚ゆれど今ちょっと見出さず。『一話一言』一六に、『会津旧事雑考』より承安元年|辛卯《かのとう》を耶麻郡新宮の神器の銘に、弥勒元辛卯と記した由を引き、三河万歳《みかわまんざい》の唱歌に、弥勒十年辰の歳、諸神の立ちたる御屋形と唄うも、いずれなき事にはあらじかし、とある。永正三丙寅と承安元辛卯、いずれも弥勒元年とするもその十年は乙亥
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