たけたけき》君の来示に、今もメキシコで僧がこの権を振う所ある由。『大英百科全書』十一板、十五巻五九三頁に、紀元三九八年カルタゴの耶蘇徒に新婚の夜、かの事を差し控えよと制したが後には三夜まで引き伸ばした。さて、欧州封建時代の領主は臣下の婚礼に罰金を課したから、この二事を混じて中古処女権てふ制法が定まりいたと信ずるに至ったのだとある。しかし上述通り欧州外にもこの風行われた地多ければ、制法として定まりおらずとも、暴力これ貴んだ中古の初め、欧州にこの風行われたは疑いを容《い》れず。『後漢書』南蛮伝に交趾の西に人を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《くら》う国あり云々、妻を娶って美なる時はその兄に譲る。今|烏滸《おこ》人これなり。阿呆を烏滸という起りとか。明和八年板、増舎大梁の『当世傾城気質』四に、藤屋伊左衛門諸国で見た奇俗を述べる内に「振舞膳《ふるまいぜん》の後《のち》我女房を客人と云々」これらは新婦と限らぬようだが、余ら幼き頃まで紀州の一向宗の有難屋《ありがたや》連、厚く財を献じてお抱寝《だきね》と称し、門跡の寝室近く妙齢の生娘《きむすめ》を臥せさせもらい、以て光彩|門戸《もんこ》に生ずと大悦びした。また、勝浦港では年頃に及んだ処女を老爺に托して破素してもらい、米、酒、および桃紅色の褌《ふんどし》を礼に遣わした。『中陵漫録』十一にいわく、羽州米沢の荻村では媒人が女の方に行きてその女を受け取り、わが家に置く事三夜にして、餅を円く作って百八個、媒が負うて女を連れ往き婚礼を調《ととの》うと。ローマの議院でシーザーに一切ローマ婦人と親しむ権力を附くべきや否やを真面目《まじめ》に論じた例あり。スコットランドでは中古牛を以て処女権を償うに、女の門地の高下に従うて相場異なり、民の娘は二牛、士の娘は三牛、太夫の娘は十二牛などだ。イングランドはこれに異なり民の娘のみこの恥を受けた(ブラットンの『ノート・ブック』巻二六)。藤沢君の『伝説』信濃巻に百姓の貢米《ぐまい》を責められて果す事が出来ないと、領主は百姓の家族の内より、妻なり、娘なりかまわず、貢米賃というて連れ来って慰んだ由見える。これも苛税をはたす奇抜な法じゃ。
 処女権の話に夢中になってツイ失礼しました。さて、曠野城の大将の恒例として、城内の人が新婦を娶るごとに処女権を振り廻す。ある時一女子あって人に嫁せんとするに臨み、そもそ
前へ 次へ
全75ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング