もこの城の人々こそ怪《け》しからね、自分妻を迎うるとてはまず他人の自由にせしむ、何とかしてこの事を絶ちたいと左思右考の末、白昼衆人中に裸で立ち小便した。立ち小便については別に諸方の例を挙げ置いたが(立小便と蹲踞《そんこ》小便)、その後見出でたは、慶安元年板『千句独吟之俳諧』に「佐保姫ごぜや前すゑて立つ」、「余寒にはしばしはしゝを怺《こら》へかね」、まずこれが日本で女人立ち尿《いばり》の最古の文献だ。ずっと前に源|俊頼《としより》の『散木奇歌集《さんぼくきかしゅう》』九に、内わたりに夜更けてあるきけるに、形《かたち》よしといわれける人の打ち解けてしとしけるを聞きて咳《しわぶ》きをしたりければ恥じて入りにけり、またの日遣わしける「形こそ人にすぐれめ何となくしとする事もをかしかりけり」。打ち解けて人に聞かるるほど垂れ流したのだから、これは宮女立ち小便の証拠らしくもある。それはさて置き、曠野城の嫁入り前の女子が昼間|稠人《ちゅうじん》中で裸で立ち尿をした空前の手際に、仰天して一同これを咎《とが》めると、女平気で答うらく、この国民はすべて意気地なしで女同然だ。而して将軍独りが男子で婚前の諸女を弄《もてあそ》ぶ。われら女人は将軍の前でこそ裸で小便がなるものか、だが汝ら女同前の輩の前で立ち小便しても何の恥かあるべきと。衆人これを聴いて大いに慙《は》じ入り、会飲の後《のち》将軍を取り囲みその舎を焼かんとす。いわく婦女嫁入り前に必ずすべて汝に辱しめらるるはどうも堪忍《かんにん》ならぬ故、汝を焼き殺すべしと。将軍それは無体だ、我辞退したのを汝ら強いて勧めたではないかと、諸人聴き入れず何に致せ焼けて焼けて辛抱が仕切れぬからという事で焼き殺ししまった。ところがこの将軍殺さるる三日前に、仏の大弟子|目連《もくれん》と、舎利弗《しゃりほつ》、およびその五百弟子を供養した功徳で大力鬼神となり、大疫気を放ち無数の人を殺す。城民弱り入り、林中に行きて懺謝し、毎日一人を送って彼に食わせる事に定め、一同|鬮引《くじびき》して当った者の門上に標札を掲げ、家主も男女も中《あた》ったら最後食われに往かしめた。かく次第してついに須抜陀羅長者《すばつだらちょうじゃ》の男児が食わるる番に中った。長者何とも情けない。如来《にょらい》我子を救えと念ずると、仏すなわち来て鬼神殿中に坐った。鬼神、仏に去れというと仏出で去る
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