べし。ただ何となき児姿《ちごすがた》をこそいえ心はただなおにこそ思わめ」と譏《そし》られた男子同性愛も、事|昂《こう》ずればいわゆるわけの若衆さえ、婦女同然の情緒を発揮して、別れを恨んで多数高価の鶏を放つに至ったのだ。わが国でこの類の最も古いらしい伝説は、神代に事代主命《ことしろぬしのみこと》小舟で毎夜|中海《なかうみ》を渡り、楫屋《いや》村なる美保津姫《みほつひめ》に通うに、鶏が暁を告ぐるを聞いて帰られた。一夜、鶏が誤って夜半に鳴き、命《みこと》、周章舟を出したが櫓《ろ》を置き忘れ、拠《よんどころ》なく手で水を掻いて帰る内、鰐《わに》に手を噬《か》まれた。因って命と姫を祀《まつ》れる出雲の美保姫社辺で鶏を飼わず。参詣者は鶏卵を食えば罰が中《あた》るとて食わぬ(『郷土研究』一巻二号、清水兵三氏報)。
『秋斎間語』二に「尾州一の宮の神主《かんぬし》、代々鶏卵を食せず云々、素戔嗚尊《すさのおのみこと》の烏の字を鳥に書きたる本を見しよりなり。熱田には筍《たけのこ》を食わず、日本武尊《やまとたけるのみこと》にて座《ましま》す故となん云々。さいえば天下の神人はすべて紙は穢れたる事に使うまじきや。また、津島の神主氷室氏、絵《えが》くに膠《にかわ》の入りたる墨を使わず、筆の毛は忌まざるにや」。もっともな言い分ながら鶏卵を食わぬには古く理由があっただろう。鶏がきぬぎぬの別れを急がして悪《にく》まるるほかに、早く鳴いて、鬼神や人の作業を中止せしめた多くの噺《はなし》は別に出し置いたから御覧下さい。
 仏経に見る鶏の輪廻譚《りんねばなし》を少し出そう。仏が王舎城にあった時、南方の壮士、力|千夫《せんぷ》に敵するあって、この城に来るを影勝王が大将とす。五百賊を討つに独り進んで戦い百人を射、余りの四百人に向い、汝ら前《すす》んで無駄死にをするな、傷ついた者の矢を抜いて死ぬるか生きるかを見よと言うた。諸賊射られた輩の矢を抜くと皆死んだので、かかる弓術の達者にとても叶わぬと暁《さと》り、一同降参した。大将これを愍《あわれ》み、そこに新城を築き諸人を集め住ませ曠野城と名づけた。城民規則を設け、婚礼の度《たび》ごとにこの大将を馳走し、次に自分ら飲宴するとした。時に極めて貧しい者あって、妻を娶るに大将を招待すべき資力なし。種々思案の末、酒肴の代りにわがいまだ触れざる新妻を大将の御慰みに供え、その後始
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