さなんだは残念だ、眼が癒えたらますます訟《うった》えるに相違ない。汝|宜《よろ》しく家に帰り冤家を尋ね出して殺すべし。しかれば汝の父はきっと癒るという。珍、何人を尋ぬべきやと問うに、今汝が射たと似た者を見ば、やにわに射殺せと教えた。珍、倉皇《そうこう》別れ、帰って、冤家の姓名を知らねば誰と尋ぬべきにあらず。思い悩みて七日食わず。その時家人報ずらく、飼い置いた白い牡鶏が、この七日間往き所知れずと。因って一同尋ねてその白鶏が架墻《かしょう》の上に坐せるを見出すに、左の眼損えり。王子珍考えて、玄石が言うたところの白衣は白鶏の毛、紫巾を戴くとは鶏冠、跣足とは鶏の足、左の眼|潰《つぶ》れたるは我が射|中《あ》てたのだ。この鶏こそ我父の冤家なれと悟り、殺し烹《に》て汁にして父に食わすと平癒した。子珍、後に出世して太原の刺史となり、百三十八歳まで長生したは李玄石の陰祐《いんゆう》による。〈故にいわく、鶏三年ならず、犬六載ならず、白鶏白犬これを食うべからず、生を害うなり〉とある。わが邦で猫を飼う初めに何年と時を定めて飼うと、期限来れば去ってまた来らず。余り久しく飼えば猫又《ねこまた》に化け「猫じゃ猫じゃとおっしゃりますな、アニャニャニャンノニャン」と謡い踊るというごとく、晋時支那では、鶏を三年、犬を六載以上飼わず、白い犬鶏は必ず食わぬものでこれを食えば冥罰《みょうばつ》を受くると信じたのだ。今も白鶏は在家《ざいけ》に過ぎたものとし、寺社に専ら飼う所あり。讃岐《さぬき》琴平《ことひら》に多く畜《か》う(『郷土研究』二巻三号、三浦魯一氏報)、『古語拾遺』に、白鶏、白猪、白馬もて御歳《みとし》の神を祭ると見え、『塩尻』四に〈『地鏡』に曰く、名山に入るには必ずまず斎すること五十日、白犬を牽き白鶏を抱き云々〉。ゴムの『歴史科学としての民俗学』三十一頁に、インドのカッボア人は、白鶏を牲《にえ》して隠財を求むといい、コラン・ド・ブランシーの『遺宝霊像評彙』一巻六四頁には、天主教徒白鶏をクリストフ尊者に捧げて、指端の痛みを癒《いや》しもらう。他の色の鶏を捧ぐればますます痛むと見ゆ。熊野地方では天狗が時に白鶏に化け現わるという。支那湖南の衡州府華光寺に、昔禅師あって白鶏を養う。経を誦《じゅ》するごとに座に登って聴く。死して寺側に埋めし上に白蓮花を生じ、花謝して泉水涌き出づ。白鶏泉と名づく(『大清一統
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