《き》を伺い、得ればすなわちこれを殺すと。『風俗通』八に黄帝書を引いていわく、上古の時、荼《と》と鬱てふ昆弟《こんてい》二人、能く鬼を執らう。度朔山上の章桃樹下に百鬼を簡閲し、道理なく妄《みだ》りに人の禍害を為《な》す鬼を、荼と鬱と、葦縄で縛りて虎に食わす。故に県官常に臘|除夕《じょせき》を以て桃人を飾り、葦索を垂《た》れ、虎を門に画くとあり。桃人は『戦国策』に見える桃梗で、〈梗は更なり、歳終更始す、介祉を受くるなり〉とあれば、年末ごとに改めて新しいのを門に懸けた桃木製の人形らしく、後には単に人形を画いて桃符《とうふ》といったらしい。和漢その他に桃を鬼が怖るるてふ俗信については『日本及日本人』七七七号九一頁に述べ置いた。
 そこに書き洩らしたが加藤雀庵の『囀《さえず》り草』の虫の夢の巻に、千住の飛鳥《あすか》の社頭で毎年四月八日に疫癘《えきれい》を禳《はら》う符というを出すに、桃の木で作れり、支那に倣《なろ》うたのだろうとある。『本草図譜』五九に田村氏(元雄か)説とて、日本で桃で戸守り符を作る事なき由を言えるも例外はあったのだ。さて桃木製の人形が人を画いた桃符に代ったと斉《ひと》しく、鶏を磔に懸けたのが戸上に画鶏を貼り付けるに変わったのじゃ。何のために鶏を殺したかは、後に論ずるとして、鶏に縁厚い酉歳の書き始めに昔の支那人は元日に鶏を磔《はりつけ》にしたという事を述べ置く。
 それから『荊楚歳時記』から引いた元旦の式を述べた上文、〈以て山※[#「月+操のつくり」、第3水準1−90−53]悪鬼を辟く〉の次に、〈長幼ことごとく衣冠を正し、次を以て拝賀し、椒柏《しょうはく》酒を進め、桃湯を飲み屠蘇《とそ》を進む云々、各一鶏子を進む〉とあって、註に『周処風土記』に曰く、正旦まさに生ながら鶏子一枚を呑むべし、これを錬形というとある。鶏卵を呑んで新年の身体を固めたのだ。それから『煉化篇』を案ずるにいわく、正旦鶏子赤豆七枚を呑み瘟気《おんき》を辟くとあるが、鶏卵七つも呑んでは礼廻りの途上で立ちすくみになり、二日のひめ始めが極めて待ち遠だろうから直ちに改造と出掛けたものか、『肘後方《ちゅうごほう》』には元旦および七日に、麻子、小豆、各十四枚を呑めば疾疫を消すとあって、卵は抜きとされおり、梁の武帝、厳に動物食を制してより、元旦に鶏卵を食うは全廃となったとある。
 鶏卵をめでたい物とする
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