が育たぬなどだ。さて正月八日は穀の日で、この日の晴曇でその年の豊凶が知れるという説もあったそうだ。宋の※[#「广+龍」、第3水準1−94−86]元英《ほうげんえい》の『談藪』には道家言う、鶏犬を先にして人を後にするは、賤者は生じやすく貴者は育しがたければなりとある。漢の応劭の『風俗通』八を見ると〈※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]平《とうへい》説、臘は刑を迎え徳を送る所以《ゆえん》なり、大寒至れば、常に陰勝つを恐る、故に戌《じゅつ》日を以て臘す、戌は温気なり、その気の日を用いて鶏を殺し以て刑徳を謝す、雄は門に著け雌は戸に著け、以て陰陽を和し、寒を調え水に配し、風雨を節するなり、青史子の書説、鶏は東方の牲なり、歳終り更始し、東作を弁秩す、万物戸に触れて出《い》づ、故に鶏を以て祀祭するなり〉と載せ、〈また俗説、鶏鳴まさに旦せんとす、人の起居を為す、門もまた昏に閉じ晨に開き、難を扞《ふせ》ぎ固を守る、礼は功に報るを貴ぶ、故に門戸に鶏を用うるなり〉。これは鶏は朝早く鳴いて人を起し門戸を守る大功あれば、その報酬として鶏を殺し門戸に懸くるというので、鶏に取っては誠に迷惑な俗説じゃ。蔡※[#「巛/邑」、第3水準1−92−59]《さいよう》の『独断』に、臘は歳終の大祭、吏民を縦《はな》って宴飲せしむ。正月歳首また臘の儀のごとしとある。件《くだん》の『風俗通』に出た諸説を攷《かんが》えると、どうも最初十二月の臘の祭りの節、鶏を殺して門戸に懸けたのが後に元日の式となった事、ちょうど欧州諸国で新年の旧式が多くクリスマスへ繰り上げられたごとし。しかるに〈古はすなわち鶏を磔す、今はすなわち殺さず、また、正月一日、鶏鳴きて起き、まず庭前において爆竹し、以て山※[#「月+操のつくり」、第3水準1−90−53]《さんそう》悪鬼を辟《さ》く云々。画鶏を戸上に帖し、葦索をその上に懸け、桃符《とうふ》をその傍に挿む、百鬼これを畏る〉と『荊楚歳時記』に載せ、註に董※[#「員+力」、第3水準1−14−71]いわく、今正臘の旦《あした》、門前、烟火桃神を作《な》し、松柏を絞索し、鶏を殺して門戸に著け、疫を追うは礼なり。『括地図』にいわく、桃都山に大桃樹あり、盤屈三千里、上に金鶏あり、日照らせばすなわち鳴く。下に二神あり、一を鬱《うつ》、一を塁《るい》と名づく、並びに葦の索《さく》を執って不祥の鬼
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