うは緒を懸ける義で、老懸は当て字、それを強解するとて、髻落ちた老人は、※[#「糸+委」、第3水準1−90−11]で繋ぎ留めるなどいうたのであろう。鎌倉時代に土御門通方卿《つちみかどみちかたきょう》が筆した『餝《かざり》抄』に、老懸古今厚薄異なるなり、古は外薄きなり、今は甚だ厚し云々と見ゆれば、仕立てに色々流行が異なったのだ。わが邦で弓矢を帯ぶる輩これを著けたは、昔英国で「コッケイドを立てる」とは兵士になったてふ意味だったと偶合する。鍋取また釜取は鍋釜の下に敷く物で、その古い形が老懸に似たので老懸を鍋取と俗称したは、『用捨箱』の説通りだ。さて老懸を櫛に、鍋取の形を蝶鳥の翼に見立てたのも、英国のコッケイド(第三図イ)の上に拡がり立てたファン(扇)と呼ばるる部分が、翼にも、櫛にも似いるに似ている。『用捨箱』の書かれた頃は、草鞋形の鍋取がたまたま用いられたそうだが、現に拙宅に伝え用いいる物は正円で、第三図ロに示す英国のコッケイドに似ている。かように似ているだらけによく似ているが、わが邦の老懸は支那の※[#「糸+委」、第3水準1−90−11]から転化して冠とともにわが邦で発達したので、もと冠の緒を掛けるための設備、欧州のコッケイドは、老懸が冠の両傍に備わると違い、帽の一方のみに立てられ、その原型らしい物が、わずかに十五世紀にラブレーの書に初めて見え、まさか日本に模したのではあるまじければ、日本国より欧州に倣うたでもない。老懸も鍋取も、帽の一方の縁を起すために穿った穴と、それを通して帽頂に繋ぎ留めた緒の端のボタンとより出来上ったコッケイドとは全く同形異源だ。世間事物の外形は千変万化も大抵限りあれば、酷似せるものが箇々別源から出来上るも不思議ならず。その源由を察せずに、似た物は必ず同根同趣と判断するは大間違いじゃ。孟子とルッソー、大塩とクロムウェルを同視したり、甚だしきは、米国学者が、貝原益軒は共和政治を主張したと言ったとて感心しいる人もある故、一言し置く。
『日本紀』に日本武尊東夷を平らげて碓日坂《うすひさか》に到り、前日自身に代って水死した弟橘媛《おとたちばなひめ》を追懐して東南を望み、吾嬬《あずま》はや、と三たび嘆じた。それから東国をアズマと呼ぶとある。鳥が鳴くアズマのアズマだけ分って、鳥が分らぬ。宮崎道三郎博士かつて『東洋学芸雑誌』に書かれたは、朝鮮語で晨《あさ》をアチム
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