の槌を使うを忌み、また刀剣同様危ぶみ怕れて、神や鬼の持ち物とし、さては山茶作りの槌や、床柱は化けると言い出したのだ。山茶の朽木夜光る故山茶を化物という(『嬉遊笑覧』十下)のも、またこの木を怪しとする一理由だ。予幼時和歌山に山茶屋敷てふ士族邸あり、大きな山茶多く茂れるが夜分門を閉づれど戸を締めず開け放しだった。然《しか》せぬと天狗の高笑いなど怪事多いと言った。那智の観音本像は山茶の木で作るという。伊勢の一の宮都波木大明神は猿田彦を祀《まつ》る(『三国地誌』二三)、村田|春海《はるみ》の『椿詣での記』に、その地山茶多しとあれば山茶を神としたものか。今井幸則氏説に、常陸《ひたち》筑波郡今鹿島は、昔領主戦場に向うに先だちこの所に山茶一枝を挿《さ》し、鹿島神宮と見立て祈願すると勝利を得たからその地を明神として祀り今鹿島と号すと(『郷土研究』四巻一号五五頁)。鹿島には山茶を神木とするにや。『和泉《いずみ》国神明帳』には従五位下伯太椿社を出す。山茶の木を神として祀ったらしい。
祭礼の笠鉾《かさぼこ》などに鶏が太鼓に留まった像を出し諫鼓《かんこ》鳥と称す。『塵添※[#「土へん+蓋」、第3水準1−15−65]嚢鈔』九に「カンコ苔《こけ》深しなんど申すは何事ぞ、諫鼓をば諫《いさ》めの鼓と読む。喩《たと》えば唐の堯帝政を正しくせんがために、悪《あ》しき政あればこの鼓を撃ちて諫め申せと定め置かれしなり。中略、何たる卑民の訴えも不達という事なかりしなり」、『連珠合璧』下、鼓とあれば諫め、苔深し。『鬻子《いくし》』に禹《う》の天下を治むるや五声を以て聴く。門に鐘鼓|鐸磬《たくけい》を懸け、以て四方の士を待つ。銘に曰く、寡人に教うるに事を以てする者は鐸を振え、云々。道を以てする者は鼓《こ》を撃てと。『淵鑑類函』五二に〈堯誹謗の木を設け、舜招諫の鼓を懸く〉とあれど出処を示さず。熊楠色々と捜すと『呂覧』自知篇に〈堯欲諫の鼓あり、舜誹謗の木あり〉と出たが一番古い。余り善政行き届いて諫鼓の必用なく、苔深く蒸したと太平の状を述べたとまでは察するが、もっとも古くこの成語を何に載せたかを知らぬ。白居易作、敢諫鼓の賦あり。『包公寄案』には屈鼓とした。冤屈を訴うる義だ。『類聚名物考』二八五に土御門《つちみかど》大臣「君が代は諫めの鼓鳥|狎《な》れて、風さへ枝を鳴らさゞりけり」、三二〇に「今の世に禁庭八月の燈籠の
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