終葵と呼ぶ。古人椎を以て鬼を逐《お》うといえば、辟邪の力ある槌を鍾馗と崇めたのだ。その事毬杖とて正月に槌で毬《まり》を打てば年中凶事なしというに類す(『骨董集』上編下前)。『政事要略』七〇に、裸鬼が槌を以て病人に向うを氏神が追い却《しりぞ》けた事あり。『今昔物語』二十の七に、染殿《そめどの》后を犯した婬鬼赤褌を著けて腰に槌を差したと記す。予が大英博物館に寄付してその宗教部に常展し居る飛天夜叉の古画にも槌を持った鬼がある。つまり昔は槌を神も鬼もしばしば使う霊異な道具としたのだ。劉宋の張稗の孫女、特色あるを富人求めたが、自分の旧い家柄に恥じて与えず。富人怒ってその家に火を付け焼き殺した。稗の子、邦、旅より還って富人の所為と知れどその財を貪って咎めざるのみか、女を嫁しやった。一年後、邦、夢に稗|見《あら》われ、汝不孝極まると言いて桃の枝で刺し殺す。邦、因って血を嘔《は》いて死に、同日富人も稗を夢み病死した(『還冤記』)。桃はもと鬼が甚《いた》く怕《おそ》るるところだが、この張稗の鬼は桃を怖れず、桃枝もて人を殺す。ちょうど悪徒は入れ墨さるるを懼《おそ》るれど、追々は入墨を看板に使うて更に人を脅迫するようだ。そのごとく槌は初め鬼の怖るるところだったが、後には鬼かえって槌を以て人を打ち困らせたと見ゆ。『抱朴子』の至理の巻に、呉の賀将軍、山賊を討つ、賊中、禁術《きんじゅつ》の名人あって、官軍の刀剣抜けず、弓弩《きゅうど》皆還って自ら射る。賀将軍考えたは、金に刃あり、更に毒あるは禁ずべきも、刃も毒もなき物は禁術が利かぬと聞く。彼能くわが兵刃を禁ずれど必ず刃なき物を禁じ能わぬべしと、すなわち多く勁《つよ》い木の白棒を作り、精卒五千を選んで先発せしめ、万を以て計る多勢の賊を打ち殺したが、禁術は一向利かなんだとある。『書紀』七や『豊後国風土記』には景行帝|熊襲《くまそ》親征の時、五人の土蜘蛛《つちぐも》拒み参らせた。すなわち群臣に海石榴(ツバキ)の椎《つち》を作らせ、石窟を襲うてその党を誅し尽くした。爾後その椎を作った処を海石榴市《つばいち》というと記す。山茶《つばき》の木は粘き故当り烈しく、油を搾る長杵《ながきね》にするに折れず。犬殺しの棒は先を少し太くし、必ずこの木を用ゆ。雕工《ちょうこう》に聞くに山茶と枇杷《びわ》の木の槌で身を打てば、内腫を起し一生煩う誠に毒木だと。こんな訳で山茶
前へ 次へ
全75ページ中58ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング