元来人を牲《いけにえ》にし樹神を祭ったところ、追い追い猴も人と余り異ならぬてふ見解から猴を人の身代りに牲し祭ったのだ。それと同様夫婦の間に他人の子を寝かせて子が生まれるよう祝したのが、猴も人に異ならぬはずといったところから、甚目寺等の猴像を借り用ゆる事となったと見える。余り褒《ほ》めた事でないが文化の頂上と自ら誇る米国人中にすら、初目見《はつめみ》えに来た嬰児を夫婦の寝床に臥せしむれば必ず子を産むと信ずる者あれば、無茶に尾張の風俗を笑ったものでない(一八九六年板バーゲン編『英語通用民の流行迷信』二五頁)。サウゼイの『随得手録』第二輯に、インドのヌデシャの王エースウルチュンズルは、猴を婚するに十万ルピイを費やし、盛装せる乗馬、車駕、駝象の大行列中に雄猴を維《つな》いで輿《こし》に載せ、頭に冠を戴かせ、輿側に人ありてこれを扇《あお》ぎ、炬火《きょか》晶燈見る人の眼を眩《くら》ませ、花火を掲げ、嬋娟《せんけん》たる妓女インドにありたけの音曲を尽し、舞踊、楽歌、放飲、豪食、十二日に竟《いた》り、梵士教法に従い誦経《ずきょう》して雌雄猴を婚せしめたと出づるも、王夫妻の相愛または猴にあやかって子を産むようの祈願から出たのであろう。和歌山市附近有本という処に山王の小祠あり、格子越しに覗《のぞ》けば瓦製の大小の猴像で満たされて居る。臨月の産婦その一を借りて蓐頭《じょくとう》に祭り、安産の後《のち》瓦町という処で売る同様の猴像を添え、二疋にして返納する事、京都北野の子貰い人形のごとし。今年長崎市発行『土の鈴』二輯へ予記臆のままその瓦猴の旧像の図を出した。第一輯に写真した物は近来ハイカラ式の物だ。猴は安産する上|痘瘡《とうそう》軽き故、かく産婦が祭る由聞いた。マレーの産婦は猴に触れば額と目が猴のような醜い児を生むとて忌む由(ラッツェル『人類史』巻一、頁四七二)。帝国書院刊本『塩尻』三四に、主上疱瘡の御事ある時は坂本山王の社に養える猴必ず疱瘡す、御痘軽ければ猿の病重く、皇家重らせたまえば猴やがて快《よ》くなるといい伝う。後光明帝崩御の時坂本の猴軽き疱瘡なりしとかや、今度新帝(東山天皇)御医薬の時山王の猴もまた疱瘡煩いける、被衣《かずき》調えさせてかの猴にきせさせたまいしがほどなく死にけり、帝はやがて御本復ありし、もっともふしぎなりけり。古の書にも見えず近代の俗説にやとある。今も天王寺の境内に猴を畜《か》い、俗衆その堂に眼(?)病を祈るに必ず癒《い》ゆ。しかるに猴は迷惑千万にも毎《つね》に眼を病むと十年ほど前の『大毎』紙に出た。これら前述通り、猴は人に近いもの故、人の病は猴また受くるはずと考え、英語でいわゆるスケイプ・ゴートとして病を移し去るつもりで仕始めたのであろう。
 インドでも子欲しき女はハヌマン猴神の祠に往き燈明を供える。古伝にアハリアは梵天創世最初に造った女で瞿曇《くどん》仙人の妻たり。帝釈かかる美婦を仙人などに添わせ置くは気が利かぬと謀叛を起し、月神チャンドラを従え雄鶏に化けて瞿曇の不在を覘《うかが》い、月神を門外に立たせ、自ら瞿曇に化け、入りてその妻と通じた処へ瞿曇帰り来れど月神これを知らず、瞿曇現場へ踏み込み、呵《か》して帝釈を石に化し千の子宮を付けて水底に沈めた。後《のち》諸神これを憐み千の眼に取り替えやった。一説には瞿曇|詛《のろ》うて帝釈を去勢したるを諸神憐んで羊の睾丸で補充したという(グベルナチス『動物譚原』一巻四一四頁、二巻二八〇頁)。この事仏典にも出で、僧伽《そうぎゃ》斯那所撰『菩薩本縁経』二に、月光王の首を乞いに来た老梵志が婆羅門の威力に誇る辞中、瞿曇仙人釈の身上において千の女根を化し、婆私※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]《ばした》仙は帝釈の身を変じて羯羊《かつよう》形と為《な》すとある。
 一九一四年ボンベイ板エントホヴェンの『グジャラット民俗記』五四頁にいわく、一説に帝釈瞿曇の妻に通じた時アンジャニ女帝釈を助けた故、瞿曇これを詛いて父《てて》なし子を生むべしという。アンジャニ惧《おそ》れて腰まで地中に埋め苦行して、シワ神に救いを求む。シワその志を感じ風神ナラダして真言を彼女の耳に吹き込ませたに、ナラダこれをその子宮に吹き込む。因って孕んでハヌマンを生んだ。これを孕む時近所の木にケシてふ猴居るを見たから、ハヌマンは猴の形を受けたというと。セマン人いわく、太古夫婦あれど子を生む事を知らず、他の諸動物皆子あるに我独りなしと恥じ入り、薪を拘《かか》えて子を持ったごとく見せかけた。椰子猴(ブロク、上出)これに逢うて気の毒がり、「神代巻」の鶺鴒《せきれい》の役を勤めて子を拵《こしら》える法を教えたので、一心不乱に教え通り行い二男二女を生んだ。この同胞二組がまた猴の教え通り行うて子供が出来た。その時|鴿《はと》来ってかかる骨肉間の婚媾は宜《よろ》しからずといったところで仕方がないから、一旦離別して互いに今までのと人を替えて婚姻すれば構いなしと教えたと(スキートおよびブラグデン、巻二、頁二一八)。されば猴に子を祈る事必ずしもインドにのみ始まったと思われず、しかしコータンの故趾からハヌマン像を見出した事もあり(一八九三年板ランスデルの『支那領中央亜細亜』巻二、頁一七六)、昔博通多学の婆羅門が仏教に対して梵教を支那で興しに来た記録もあれば(『高僧伝』六)、甚目寺等で猴像に子を乞うのはあるいはハヌマン崇拝から転化したのかと惟《おも》う。南インドプルバンデルの諸王はハヌマン猴神の裔で尾ありという(ユールの『マルコ・ポロの書』一八七五年板、巻二、頁二八五)。ただし人間に相違ないから猴が化したともいわれず。猴神子なき女を不便《ふびん》がる余り、自ら手を付けて生ませた後胤か、不審に堪えぬ。
[#「第5図 ハヌマン猴」のキャプション付きの図(fig2539_05.png)入る]
 ハヌマン猴、学名セムノピテクス・エンテルス(第五図)はインドに産し、幼時灰茶色で脊より腰へ掛けて暗茶色の一条あり、長ずるに随い黒毛を混じ石板色となる。顔と四肢は黒く鼻より尾根まで三、四フィート、尾はそれより長し。他猴と異なり果よりも葉を嗜《この》み、牛羊同然複胃あり。鼻梁《びりょう》やや人に近く、諸猴に優《すぐ》れて相好《そうごう》美し(ウットの『博物画譜』一)。この猴の大群昔その王ハヌマンに従い神軍に大功ありしとて、ハヌマン猴の称あり。ヒンズー教徒のヴィシュニュ(仏典の韋紐)を奉ずる輩もっともハヌマン神を尊べども他派の者もまたこれを敬し、寺堂園林より曠野に至るまでその像を立てざるなく、韋紐の信者多き地にはその像に逢わずに咫尺《しせき》も歩み得ず、これに供うるは天産物のみで血牲を用いず、猴野生する処へは日々飯菓等の食物を持ち往き養い最大功徳とす(ジュボア『印度の風俗習慣および礼儀』二巻六章)。一七二七年板、ハミルトンの『東印度記』に、ヴィザガパタムの堂に生きた猴を祀《まつ》る、数百の猴食時ここに集まり僧が供うる飯などを享《う》け、食しおわって列を正して退く、その辺で人を殺すは猴を殺すほど危うからずといい、十七世紀に旅したタヴェルニエーの『印度紀行』には、アーマダバット附近の猴、火金両曜ごとに自らその日と知って市中に来り、住民が屋上に供えた稲稷甘蔗等を食い頬に貯えて去る。万一これを供えざれば大いに瞋《いか》って瓦を破ると述べた。されば今日もビナレスの寺院にハヌマン猴を夥しく供養し、また諸市のバザーに入って人と対等で闊歩し、手当り次第|掴《つか》み歩く。紀州田辺の紀の世和志と戯号した人が天保五年に書いた『弥生《やよい》の磯《いそ》』ちゅう写本に、厳島《いつくしま》の社内は更なり、町内に鹿夥しく人馴れて遊ぶ、猴も屋根に来りて集《つど》う。家々に猴鹿の食物を荒らさぬ用意を致すとあるを見て、インドでハヌマン猴の持てようを想うべし。タヴェルニエーまたサルセッテ島にハヌマン猴王の骨と爪を蔵する銀棺を祀れる塔あり、インド諸地より行列して拝みに来る者引きも切らざりしを、ゴアの天主教大僧正押して取る、ヒンズー教徒莫大の金を以て償わんと乞い、ゴアの住民これを許しその金を以て軍を調《ととの》え貧民を扶《たす》くべしと議せしも聴《き》かれず、これを焼けばその灰を集めてまた祀るを慮《おもんぱか》り、棺を海上二十里|漕《こ》ぎ出し海に沈めたと述べた。
『ラーマーヤナ』は誰も知った通りヒンズー教の二大長賦の一つで、ハヌマン猴王実にその骨髄というべき活動を現わす。この長賦の梗概《こうがい》は大正三年二月十日の『日本及日本人』、猪狩史山氏の「ラーマ王物語」を見て知るべし、余も同年八月の『考古学雑誌』に「古き和漢書に見えたるラーマ王物語」を載せた。迦旃延子《かせんねんし》の『※[#「革+婢のつくり」、第4水準2−92−6]婆沙《びばしゃ》論』に、羅摩那(ラーマーヤナ)一万二千章あり、羅摩泥(ラーヴァナ)私陀(シタ)を将《も》ち去り羅摩(ラーマ)還って将ち来るに一女の故に十八|※[#「女+亥」、82−4]《がい》(今いう百八十億)の多数を殺し、また喧嘩《けんか》の事ばかり述べあるは至極詰まらぬとあるより、日本の僧侶など一向|歯牙《しが》にも掛けなんだらしいが、それは洋人が、『古事記』『日本紀』を猥雑《わいざつ》取るに足らぬ書と評すると一般で、余が交わった多くのインド学生中には羅摩の勇、私陀の貞、ハヌマンの忠義を語るごとに涙下る者少なからぬを見た。今ジュボアの書等より採って略述する。文中人名に漢字を当てたは予の手製でなく実に符秦の朝に支那に入ったカシュミル国の僧伽跋澄の音訳に係る。いわく、羅摩(ラーマ)はアヨジ国王ダサラダが正后カウサリアに生ませた子で、初め林中に瞿曇仙に師事した時、上に述べた通りこの仙人その妻アハリアの不貞を怒り、詛うて石に化しあったのを羅摩足で触れて本形に復せしめた。それからミチラ国王ジャナカを訪《おとな》い、シワ神が持った弓あっていずれの国王もこれを彎《ひ》き得ずと聞き、容易《たやす》くその弓を彎き、その賞として王女私陀(シタ)を娶《めと》ったところを、父王より呼び還され政務を譲らる。一日弓を彎いた弦音《つるおと》以てのほか響いて側《かたわら》にあった姙婦を驚かせ流産せしめ、その夫の梵士怒って、爾今《じこん》、羅摩、庸人《ようじん》になれと詛う。それより羅摩生来の神智を喪う。その後ほどなく父王の第四妃その生むところの子を王に嗣《つ》ぎ立てしめんとて、切に羅摩に退位を勧め、羅摩承諾して、弟、羅史那(ラクシュマナ)と自分の妻私陀を伴い林中に隠る。一日羅摩の不在中、羅史那スルパナカの両耳を切り去る。これは楞伽(ランカ、今のセイロン)の鬼王羅摩泥(ラーヴァナ)とて、身体極めて長大に十の頭ある怪物の妹なり。羅摩泥、妹がために返報せんと、私陀を掠《かす》め去る。羅摩帰って妻を奪われしと知り、地に仆《たお》れて慟哭《どうこく》これを久しゅうしたが、かくてやむべきにあらざれば、何とか私陀を取り返さんと尋ね行く途上、猴王スグリヴァ、その児ヴァリと領地を争い戦うを見、そのためにヴァリを殺す。猴王大いに悦び力を尽して羅摩を助く。羅摩誰かを楞伽《りょうが》に使わし、敵情を探らんと思えど海を隔てたれば事|容易《たやす》からず。この時スグリヴァ猴王の軍を督せしハヌマン、身体極めて軽捷《けいしょう》で、たちまち海上を歩んでかの島に到り、千万苦労してようやく私陀が樹蔭に身の成り行きを歎くを見、また、その貞操を変ぜず、夫を慕い鬼王を詈《ののし》るを聴き、急ぎ返って羅摩に報じ、その請に応じて、山嶽、大巌を抜き、自分の身上にあるだけの無数の石を担《かか》げて幾回となく海浜に積み、ついに大陸と島地の間に架《か》け渡した。羅摩すなわち猴軍を先に立て、熊軍をこれに次がせて、新たに成った地峡を通り、楞伽城を攻め、勝敗多回なりしもついに敵を破って鬼王を誅《ちゅう》し、私陀を取り戻し、故郷へ帰った。
 竜樹菩薩の『大智度論』二三に問うて曰く、人あり無常の事至るをみ、転《うた》た更に堅く著す、国王夫人たる宝女地中よ
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