後肢を伸ばして覆《うつ》むき臥し、前手で母の背毛を握って負われ居る。眼疾き若猴が漿果多き木を見付け貪《むさぼ》り食うを見るや否や、上猴どもわれ一と駈け付けてこれを争う、所へ大猿来り、あるいは打ちあるいは毛を引き、脱隊者をばあるいは尻を咬《か》みあるいは尾を執って引き戻しおし入れ振り舞わす、かくて暫時の間に混雑を整理し、自ら樹下に坐し、静かに漿果を味わう。この狗頭猴は夥しく音声を変える、けだし言語の用を為すらしく、聞いて居ると警を告げるとか、注意を惹くとか分って来た。例せば予が樹蔭に匿《かく》れて窺うを見付け何物たるを審《つまびら》かにせぬ時、特異の叫びをなして予を叫び出したと。パーキンスの『アビシニア住記』一にも狗頭猴の記事ありいわく、この猴の怜悧なる事人を驚かす、毎群酋長ありて衆猴黙従す、戦闘、征掠《せいりゃく》、野荒し等に定法あり、規律至って正しく用心極めて深し、その住居は多く懸崖《けんがい》の拆《ひら》けたる間にあり、牝牡老若の猴の一部族かかる山村より下るに、獅子のごとき鬣《たてがみ》で肩を覆える老猴ども前に立ち、頃合《ころあい》の岩ごとに上って前途を見定む、また隊側に斥候たるあり、隊後に殿《しんがり》するあり、いずれも用意極めて周到、時々声を張り上げて本隊の凡衆を整え敵近づくを告ぐ、その折々に随って音色確かに異なり、聞き馴れた人は何事を知らせ居ると判るよう覚ゆ。けだしその本隊は牝猴と事馴れぬ牡と少弱輩より成り、母は児を背負う、先達猴の威容堂々と進むに打って変り、本隊の猴ども不規律甚だしく、千鳥足で囀《さえず》り散らし何の考えもなくただただ斥候の用心深きを憑《たの》んで行くものと見ゆ、若猴数疋果を採らんとて後《おく》るれば殿士来って追い進ましむ。母猴は子を乳せんとてちょっと立ち止まり、また時を浪費せじと食事しつつ毛を理《おさ》める。他の若き牝猴は嫉妬よりか嘲笑的に眺められた返報にか、他の牝猴に醜き口を突き向け、甚だしき怒声を発してその脛《すね》や尾を牽《ひ》き、また臀《しり》を咬むと相手またこれに返報し、姫御前《ひめごぜ》に不似合の大立ち廻りを演ずるを酋長ら吠《ほ》え飛ばして鎮静す。一声警を告ぐれば一同身構えして立ち止まり、調子異なる他の一声を聞いて進み始む。既に畑に到れば斥候ら高地に上って四望し、その他はすこぶる疾《と》く糧を集め、頬嚢《きょうのう》に溢るるばかり詰め込んだ後多くの穂を脇に挟《はさ》む。予しばしば観《み》しところ斥候は始終番し続け少しも自ら集めず、因って退陣事終って一同の所獲を頒《わか》つと察す。彼らまた水を求むるに敏《さと》く、沙中水もっとも多き所を速やかに発見し、手で沙《すな》を掘る事人のごとく、水深けば相互交代す、その住居は岩の拆《さ》けた間にあって雨に打たれず他の諸動物が近づき得ざる高処においてす。ただし豹はほとんど狗頭猴ほどよく攀じ登ればその大敵で、時にこれを襲うあれば大叫喚を起す、土人いわく、豹は成長せる猴を襲う事稀に時々児猿を捉うと。この猴力強く動作|捷《はや》く牙固ければ、敵として極めて懼《おそ》るべきも、幸いにその働き自身を護るに止まり進んで他を撃たず、その力ほど闘志多かったら、二、三百猴一組になって来るが常事ゆえ、土人の外出は至難で小童の代りに武装した大人隊に畑を番せしめにゃならぬはずだ。しかし予はしばしばその犬に立ち掛かるを目撃し、また路上や林中で一人歩く婦女を撃つ由を聞いた。一度女人が狗頭猴に厳しく襲われ、幸いに行客に救われしも数日後死んだと聞いた事あると。[#地から2字上げ](大正九年五月、『太陽』二六ノ五)

     (三) 民俗

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 さきに猴酒の事海外に例あるを聞かぬと書いたは千慮の一失で、『嬉遊笑覧』十上に『秋坪新語』忠州山州黒猿|善《よ》く酒を醸《かも》す事を載す。※[#「けものへん+胡」、72−4]※[#「けものへん+孫」、72−4]酒といえり、みさごずしに対すべしとあれば海外またその話ありだ。なお念のため六月発行『ノーツ・エンド・キーリス』十二輯六巻二九五頁へ和漢のほかに猴酒記事の例ありやと問いを出し置いたが、博識自慢の読者どもから今にこれというほどの答えが出ず。唯一のエフ・ゴルドン・ロー氏の教示に、猴酒は一向聞かぬが英語で猴の麪包《パン》(モンキース・ブレッド)というのがある。バオバブ樹の実を指《さ》す、またピーター・シンブルの話に猴吸い(サッキング・ゼ・モンキー)といえるは、椰子《やし》を割って汁を去りその跡へラム酒を入れて呑むをもいえば、樽《たる》に藁《わら》を挿《さ》し込んで酒を引き垂らすをもいう。俗にこれを猴のポンプとも名づくとあってまず猴が酒を作る話は日本と支那のほかにないらしい。件《くだん》のバオバブ一名猴の麪包の木はマレー群島の名菓ジュリアンと同じく、わが邦の梧桐《ごどう》の類に近きボムバ科に属し、アフリカの原産だが今はインドにも自生す。世界中最大の木の随一でその幹至って低いが周回七十|乃至《ないし》九十フィートのものなり。フンボルトその一つを測量して五千百五十年を経たはずと断定した。その樹皮と葉を駆虫剤とし、葉を乾かして痢病に用い、殊に汗を減ずるに使い、その木を網の浮きとするなど、すこぶる多用な木だが、一番珍重さるるはその実で外部木質、内に少し酸《す》く冷やかな軟肉ありてゴム様に粘る。その大きさ瓢《ひょう》のごとし。生食してすこぶる旨く、その汁を搾って砂糖を和し飲めば瘟疫《おんえき》に特効あり。エジプト人はその肉を乾かし水に和し飲んで下痢を止むとあるから(『大英百科全書』巻三、リンドレイの『植物界』第三板三六一頁、バルフォールの『印度事彙』第三板一巻、二二および二七六頁)、猴麪包の功遥かに存否曖昧の猴酒に優《まさ》る。それと比較にならねどわが邦にもサルナシという菓あり。猫が好くマタタビと同属の攀緑《はんりょく》灌木で葉が梨に似るから山梨とも呼ぶ。甲斐の山梨郡はこの物に縁あっての名か。その皮粘りありて紙をすくに用ゆ。実も条《ゆず》に似て冬熟すれば甘美なり。『本草啓蒙』にその細子|罌粟《けし》子のごとし。下種して生じやすしとあれど、紀州などには山中に多きも少しも栽培するを見ず。しかし平安朝廷の食膳を記した『厨事類記《ちゅうじるいき》』に※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴桃を橘《たちばな》や柿とともに時の美菓に数えたれば、その頃は殊に賞翫したのだ。『本草綱目』三三に、その形梨のごとくその色桃のごとし、而して※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴喜んで食う故に※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴梨とも※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴桃とも名づくとあれば、邦名サルナシは支那名を和訳したのか。それからサルガキとて常の柿と別種で実小さいのがある。漢名君遷子、この柿の渋が養蚕用の網を強めるに必要で、紀州では毎年少なからず信州より買い入るを遺憾に思い、胡桃沢勘内氏民俗学の篤志家で文通絶えざるを幸い、その世話で種を送りもらい植え付けて後|穿鑿《せんさく》すると、紀州の山中処々に野生があった。それを培養せぬ故古来無用の物になりいたのだ。邦人の不注意なるこの類の事が多い。足利時代に成ったらしい「柿本氏系図」に信濃《しなの》の前司さるがきと出たれば本よりかの国の名産と見える。これも猴が好き食うから名づけたるにや。
 猴に関する民俗を述ぶるに、まず猴崇拝の事から始めると都合が宜《よろ》しい。『大英百科全書』十一板二巻動物崇拝の条に、インドで猴神ハヌマンもっとも著《あら》わる。ヒンズー教を信ずる諸村で猴を害する事なし。アフリカのトブ民も猴を崇拝す。仏領西アフリカのボルト・ノヴチでは小猴を双生児の守護尊とすとある。マレー半島のセマン人信ずるは、創世神タボンの大敵カクー、黒身炭のごとく西天に住む。ここを以て東は明るく西は闇《くら》し、天に三段ありてカクーの天最高所にあり、ブロク猴の大きさ山ほどなるがこれを守り、その天に登って天菓を窃《ぬす》まんとする者を見れば、刺《とげ》だらけの大なる菓を抛《なげう》って追い落す。世界終る時、地上一切の物ことごとくこの猴の所有となる(スキートおよびブラグデン著『巫来《マレー》半島異教民族篇』巻二、頁二一〇)というが、いかな物持ちとなっても世界が滅びちゃ詰まらないじゃないか、このブロク(椰子猴、学名マカリス・ネメストリヌス)についてマレー人の諺に「猴に裁判を乞う」というがある。一人ありて他の一人の所有地に甘蕉《バナナ》を植え、その果熟するに及び互いにこれを争う。決せずしてブロク猴に裁決を求めると猴承知して二人に果を分つに、一人|対手《あいて》の得分多きに過ぎると苦情いう。猴なるほどこれは多過ぎると荒増《あらま》し引き去って自分で食ってしまうと、今度は他の一人がそれでは自分の方が少な過ぎるという。どうもそうらしいといって猴また多い方から大分せしめる。かくせり合ってついに双方一果も余さぬに及んだ。裁判好きの輩判官に賄賂《わいろ》を重ねて両造ともにからけつとなるを「猴に裁判を乞うた」というのだそうな(スキート著『巫来方術篇』一八七頁)。ジャワのスラバヤでも猴を神とした由、明の黄省曾の『西洋朝貢典録』巻上に出《い》づ。註にいわく、この港の洲に林木茂り、中に長尾猴万余あり、老いて黒き雄猴その長たり。一老番婦これに随う。およそ子なき婦人、酒肴《しゅこう》、花果、飯餌《はんじ》を以て老猴に祷《いの》れば、喜んですなわち食い、衆猴その余りを食う。したがって雌雄二猴あり、前に来って交感し、婦人これを見て帰れば孕む。猴食わず交わらずば孕む事なし。土伝に唐の時民丁五百余口あって皆無頼なり、神僧その家に至り水を吹き掛けてことごとく猴と成した、ただ一|嫗《おう》を留めて化せしめず、その旧宅なお存すと。『淵鑑類函』四三二ジャワ国の山に猴多く人を畏れず、呼ぶに霄々《しょうしょう》の声を以てすればすなわち出《い》づ、果実を投げればその二大猴まず至る、土人これを猴王、猴夫人という。猴王、猴夫人食うた余りを群猴食うとある。
 スラバヤ同様猴に懐妊を祈ること出口米吉氏の「土俗覧帳」(『人類学雑誌』二八巻十号)に『大朝』紙を引いて、尾張海東郡甚目寺観音院境内にオサルサマあり、子を授くるとて信者多し、その本尊木彫の猴、高さ一尺内外の坐像、半身大の桃実を抱き真向に坐す。なおこの正体のほかにこれに似た一猴像あり、こは今より百年以前非常に流行せしために更に一の副像を造れるなり。この猴の像を借り受けて寝る時はたちまち子を授かるとて諸方よりこれを借る者多かりし故なり。今も借りに来る者多く、借料一週間一円なりというと見ゆ。マレー群島のチモル・ラウトでは婚礼の宴席で新夫婦の間に、一男児と一女児を坐らせ子を生むべく祝い、チンギアウスでは婚姻の初夜一童を夫婦間に眠らしむ(英訳ラッツェル『人類史』一巻四四〇頁)。『隋書』に〈女国は葱嶺《そうれい》の南にあり、云々、樹神あり、歳初め人を以て祭り、あるいは※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴を用いて祭る〉。これは『抱朴子』に〈周|穆王《ぼくおう》南征す、一軍皆化して、君子は※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]と為り鶴と為り、小人は虫と為り沙と為る〉。『風来六々部集』に「一つ長屋の佐治兵衛殿、四国を廻って猴となるんの、伴れて還《かえ》ろと思うたが、お猴の身なれば置いて来たんの」てふ俗謡を載せ、アフリカのアクラでは猴を神僕と呼び、人間が生まれ損《そこの》うたものといい、セラコット人とマダカスカル島民は人が罪業のために猴になったと信ず(シュルツェの『デル・フェチシスム』五章六章)。
 一六八四年パリ板サントスの『東エチオピア史』一巻七章に、カフル人は猴はもと人だったが、言《ものい》えば働かさるるを嫌い猴となって言わずと説くとある。この通り猴は人の化けたものというところから、昔中央アジアの女国、すなわち女王を奉じ婦女の政権強かった国では、
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