記す。多くの下等動物や小児や蛮民同様、猴は多く真似をする。皆人の熟知する通り。行商人、炎天に赤帽の荷を担《にな》い歩み憊《つか》れて猴多き樹下に止まり、荷箱を開いて赤帽一つ取り出し冒《かぶ》って眠るを見た猴ども、樹より降りて一々赤帽を冒り樹に登る。その人|寤《さ》めて多くの帽失えるを知り失望してその帽を地に抛《なげう》つと、衆猴その真似してことごとく盗むところの帽を投下し、商人測らず失うところを残らず取り還したてふ話があると。
熊楠いわく、この譚は回教国の物らしいが、類話は古く仏典に出て居る。過去世に伽奢《かしゃ》国王|梵施《ぼんせ》と拘薩羅《くさら》国王長生と父祖以来怨仇たり。梵施王象馬歩車の四兵を以て長生王を伐ち戦敗れて生捕《いけど》られしを長生王赦して帰国せしめた、暫くして梵施王また兵を起して長生王を伐ち敗り、長生王その后《きさき》と深山無人の処に隠れ、琴を学んで無上に上達し諸村を徘徊して乞食す。梵施王の第一大臣この夫婦を招き音楽を聴くに未曾有《みぞう》にうまいから、乞食をやめさせ自邸に住ましめ扶持して琴を指南せしむ。時に長生王の后臨月に近付き夫に語るは、何卒《なにとぞ》朝日初めて出る時|好《よ》き幃帳《いちょう》内に妾を臥せしめ、四つ辻で象馬歩車の四兵の闘う処を見せ、闘いに用いた利刀の洗汁を飲ませて欲しいと。王それは出来ぬ相談だ、昔王位にあった時はともかく、かく落ちぶれて暮し兼ねるに「寝ていて戦争を眺めたい」などは思いも寄らぬというと、后それが出来ずば子を生まずに死ぬとせがむ。折から大臣に招かれ琴を弾《ひ》くにややもすれば調子合わず、何か心配があるのかと推問されて事情を語る。その時自分夫婦は腹からの乞食でなく実は拘薩羅国の王と后だと打ち明けたらしい。大臣これを憐《あわれ》み望みの通り実行させて刀の洗汁を后に飲ましむ。さて生まれた男児名は長摩納、この子|顔貌《かおかたち》殊特で豪貴の人相を具う。かの大臣これ後日聖主となり亡国を復興する人物と、后に向い祝辞を述べ、家人を戒めこの語を洩らさば誅戮《ちゅうりく》すべしというた。長摩納ようやく成人して梵施王の諸大臣や富人を勧進《かんじん》し施財を得て父母の貧苦を救う。梵施王聞き及んで長生王を死刑に処した。長摩納母を伴って他国に奔《はし》り、琴を修業しまた乞食して梵施王の城下へ来た。王その長生王の子たるを知らず、召して深宮に入れその妙技に感じ寵愛自分の子のごとし。時に梵施王の后|摩尼珠《まにしゅ》を失い、我が所は王と長摩納のほか入る者なきにこの珠をなくしたは不審という。王、長摩納を呼び汝珠を取ったかと問うに、全く王の太子、王の首相、国中第一の長者、第一の遊君の四人と共謀して取ったと答う。王すなわち五人の者どもを禁獄したが容易に裁判済まず。かれこれするうち賊あり、私《ひそ》かに長摩納に向い、后宮へ出入するは王と后と汝三人に限るが、そのほかに后宮内を歩き廻る者がないかと尋ぬるに、猴一疋ありと答う。賊すなわち王に詣《いた》り請うて、女人の飾具|瓔珞《ようらく》を種々出し、多く猴を集めこれを著《つ》けて宮内に置くと、先から宮中にいた猴これを見て劣らじと偸《ぬす》んだ珠を佩《お》びて立ち出づるを賊が捕えて王に渡した。王すなわち長摩納を呼び汝珠を取らぬに何故取ったと言うたかと問うと、某《それがし》実に盗まざれど王と后と某のほか宮に入る者なきに盗まぬといったところで拷問は差し当り免れぬ。太子は王の愛重厚ければ珠くらいの事で殺されじ、首相は智者ゆえ何とか珠を尋ね中《あ》つべし、第一長者は最も財宝に富めばすいた珠を奉り得べく、第一遊君は多人が心を掛くるから日頃の思いを晴らしもらうはこの時と、必ず珠を償う者あるべしと考えてこの四人を同謀と虚言したと答えたので、王その智慧を感じますます鍾愛した。ある日王、兵衆を随えず長摩納に車を御せしめ、ただ二人深山に入って猟し、王疲れて長摩納の膝を枕に眠った。長摩納父の仇を復すはこの時と利剣を抜いて王の首に擬したが、父王平生人間はただ信義を貴ぶべしと教えたるを思い出し、恚《いか》りを息《やす》め剣を納めた時|俄然《がぜん》王驚き寤《さ》めた。身体流汗毛髪皆立ち居る様子、その子細を問うと我今夢に若者あり、右手剣を執り、左手わが髪を撮《つま》み、刀を我が頸に擬し、我は長生王の太子、亡父のために復仇するぞというを聞き、夢中ながら悔いて自ら責めたと語る。御者王に白《もう》す、還って安眠せよ、また驚くなかれ、長生王の子長摩納実は某《それがし》なりと。王命じて車を御せしめ王宮に還り御者の罪を議するに、まず手足を截《た》ちて後殺すべしの、その皮を生剥ぎにすべしの、火で炙《あぶ》った矢で射るべしのと諸大臣が申す。王この御者は長生王の太子なり。その復仇を中止して我を免《ゆる》したればこそ我生き居るなれ、卿《けい》ら悪意を生ぜざれとして一女を長摩納に妻《めあ》わせ拘薩羅《くさら》国王に立てたとある(『出曜経』十一、『四分律』四三を参酌す)。従来誰も気付かぬようだが、この物語のうち長摩納に剣を擬せられ居る梵施王がその通り夢に見たところは、「垂仁紀」に天皇|狭穂姫《さほひめ》皇后の膝を枕に寝《い》ね小蛇御頸に繞《まと》うと夢みたまいし段に似、長摩納が王を殺さんとして果さなんだところは、『吉野拾遺』、宇野熊王が楠正儀《くすのきまさのり》を討ち果せなんだ話に類す。而《しか》して猴が他の諸猴の真似して偸《ぬす》んだ珠を佩び現われたところは上述赤帽の行商人の譚に近い。
ペッチグリューまた曰く、猴は人真似に止まらず、また究察力を有す。ある褐色カプシン猴はよく竈箒《かまどほうき》の柄を捻《ね》じ入れまた捻じ戻した。最初柄の孔に合わぬ端を孔に当て正しく捻じ廻したがはいらぬを見て、他の端に振り替え孔に当て正しく捻じ初めた。前二手で柄を持ち定めまた廻すは甚だ困難ゆえ、ついに一の後手(猴は足なく前後四手あり)で箒を持ち螺旋《ねじ》を合わすに並みならぬ根気を要したが、やっと合せて速やかに捻じ入れしまった。もっとも驚き入ったは、いかほど螺旋を合わし損うても二度と柄の孔に合わぬ端を孔に当てなんだのと、右から左へのみ捻じ廻した事だ。一度捻じ入れて直ちに捻じ離し、二度めは初度より易《やす》く幾度も行うた。かくて随分巧者になったところでこれをやめて他の遊びに掛った。何の必要もなき事にかくまで辛苦したは驚くほかなく、一たびやり掛けた事はいかな難件をも仕遂げるが面白いと見ゆ。これ人間のほかに見ぬところである。誰も見て居ると知らずにやったのだから讃められたくてでなく、全く為《な》さんと欲したところを為し遂げんとの望みに出たのだ。この猴またやすやすと窓隠しを開閉するを覚え楽しみ、螺旋三つまで重ねて留めた鈴の手を皆捻じ戻して解いた。この褐色カプシン猴は猴類でもっとも睿智《えいち》のものと言うべく、野生のままでは大いにその睿智と模倣力を揮うべき事物に接せず、したがってやや低能なるも、人間《にんかん》に棲み、器具に近づくに及んですこぶるこれを揮うと見ゆ。かくてこの猴夜分毛布中に臥し、人のごとく物を抛《な》げ、物を取り寄せ杖で他を打ち、鎚《つち》で栗を破り、梃《てこ》で箱の蓋《ふた》を開き、棒をへし折り、毛箒の柄の螺旋を捻じ入れ捻じ戻し、握手を交え、燭《しょく》に点火してその燃ゆるを守り、自分の頭に暖灰を撒《ま》く。けだしこの猴の脳裏に本来伏在せる睿智が人間に接して興起したので、他の諸家畜とても同様の例多し。元来猴は常に飼われず、故にその人に接近するは永続せず、他の諸畜より遥かに短し。しかるに上述のごとき諸例あるを見れば、猴類が頓智《とんち》に富みその境涯に迎合する力大なるを知るべし。しかしながら猴と人の智力に大懸隔あり、質においても量においても猴の智慧は人よりも甚だ諸家畜、就中《なかんずく》犬と象に近きを見ると。
以上ペッチグリウが挙げた諸例は科学者が審判して事実と認めたもので、その多くはロメーンズの『動物の智慧』から採り居る。この他ウォータートンの博物論文、バクランドの『博物奇談』、ジャージンの『博物文庫』巻二七、カッセル出版『猴類博物学』と『猴史』等に猴の話多い中に虚誕も少なからぬようだ。
東洋の書籍にも猴の珍談随分多いが、詰まらない嘘その半ば以上を占めるが、また西人が気付かぬ実事も少なからず載りたれば、十分|稽査《けいさ》に値いする。例せば『類聚名物考』に猴大根を食わしめてよし、またカヤの実を食すれば甚だ験《げん》あり、猴舞わしの家常に用ゆ、甚だ蟹の殻|并《なら》びに手の螫《はさみ》を嫌うなりとあるなど経験に拠ったのであろう。ボールの『印度藪榛生活』にインドの海辺で猴好んで蟹を採り食う由載せ、ビルマのシノモルグスは蟹を専食する猴だ。熊野の勝浦などで、以前は猴が磯に群集し蟹を採り食うに石でその殻を打ち破った。しばしば螫で鉗《はさ》まれ叫喚の声耳に喧《かまびす》しかったと古老から聞いた。しかるに予幼時|直《すぐ》隣りの家にお徳という牝猴あり。紙に蟹を包み与えると饅頭《まんじゅう》と思い戴《いただ》き、開き食わんとして蟹出づるに仰天し騒ぎ逃げ廻る事夥し。その後誰が紙包みの饅頭を遣わしても必ず耳に近づけ、蟹の足音せぬか聞き定めた後初めて開いた。『醒睡笑《せいすいしょう》』に、海辺の者山家に聟を持ち、蛸《たこ》と辛螺《にし》と蛤《はまぐり》を贈りしを、山賤《やまがつ》輩何物と知らず村僧に問うと、竜王の陽物、鬼の拳、手頃の礫じゃと教えたとある通り、件《くだん》の牝猴幼くて捕われ蟹を見た事なき故怖れたのだ。現に予の家に飼う牝鶏は、始め蚯蚓《みみず》を与うるも逃げて食わなんだが、昨今は喜んで食う。それから『皇都午睡』初篇中巻にいわく、岐蘇《きそ》の猿酒は以前信州の俳友より到来して呑みたるが、こは深山の木の股《また》、節穴などの中に猿秋の木実を拾い取り運び置きたるが、雨露の雫《しずく》に熟し腐るを山賤見出して持ち返り、麻袋へ入れ搾りし物にて黒く濃くして味渋みに甘きを兼ねていかさま仙薬ともいうべき物なりと、熊野にも稀《まれ》にありと聞けど海外に似た例をまだ承らぬが、予の「酒泉の話」(大正六年『日本及日本人』春季拡大号)に述べた通り、樹竹の幹などに人手を借りず酒様の物が出来る例少なからず予の手許に標本が集り居る。由って推し考うるに、獣類が蓄えた果物もしくは食べ残しが瀦《たま》って旨《うま》く醗酵するはあり得る事だ。
猴類は人に多く似るものほど鬱性に富み、智力増すほど快活を減ずとフンボルトは説いた。賢人憂苦多く阿房《あほ》は常に飛び廻るようなものか。ただしかかる断定は野生の猴を多く見て始めて下すべく、人手に入れたもののみを観察して為し得べきでない。『奥羽観跡聞老志』九に五葉山の山王神は猴を使物として毎年六月十五日猴集まって登山すとあり。紀州の白崎では、以前榕実熟する時、猴これを採りに群集し、田辺附近の竜神山にも、千疋猴とて、夥しき猴の団体を見た事あるも、近年一向なし。猴ごとき本来群居するものの性質行為を研究するは、是非ともその野生群居の処にせにゃならぬに、そんな所は本邦で乏しくなった。支那にも千疋猴あった例、程伯淳、山に遊んで猴一疋も見えず、山僧より〈晏元献南に来て※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴野に満つ〉と聞き、戯れに一絶を為《つく》って曰く、〈聞説《きくならく》※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴性すこぶる霊《さと》し、相車来ればすなわち満山に迎う、騾に鞭《むちう》ちてここに到れば何ぞかつて見ん、始めて覚る毛虫《もうちゅう》にもまた世情〉。猴までも貧人を軽んずと苦笑したのだ。
ベーカーの『アビシニアのナイル諸源流』十章にいわく、十月に入りて地全く乾けば水を覓《もと》むる狗頭猴の団体極めて夥しく河に赴き、蔭《かげ》った岸を蔽える灌木の漿果《しょうか》を食うため滞留す、彼らの挙止を観るは甚だ面白し、まず大きな牡猴がいかめしく緩歩し老若の大群随い行くに、児猴は母の背に跨《また》がり、あるいは
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