とてことごとく手中の豆を捨て鶏鴨に食われた話を出す。猴は毎々そうするか否を知らぬが、予かつて庭に遊ぶ蟹に一片の香の物を投ぐると走り寄りて右の螫《はさみ》でこれを執る。また一片を投ぐると左の螫で執る。更に一片を投ぐると右の手に持てるを捨ててこれを執り、今一つ投ぐると左手に挟んだのを捨てて新来の一片を執る。幾度も投げ与うるに毎度かくのごとくし、ついに最後の二片を持ちて穴に入ったそのまままた出て前来の諸片を採らず、全く忘れしまったようだった。最後の二片で満足するほどなら幾度も拾い換えるに及ばぬというところに気付かぬは蟹根性とでも名づくべきか。だが世間にこんな根性の人が少なくない。『僧祇律』に群猴月影水に映るを見、月今井に落ちた、世界に月なしとは大変だ助けにゃならぬと評定して、その一疋が樹の枝を捉え、次々の猴が各他の猴の尾を執りて連なり下る重みで枝折れ猴ども一同水に陥った。天神これを見て「なべて世の愚者が衆愚を導びかば、井戸の月救う猴のごと滅ぶ」コラサイと唄うたと出《い》づ(英訳シーフネル『西蔵《チベット》譚』三五三頁)。これに謝霊運《しゃれいうん》『名山記』に〈※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]※[#「けものへん+柔」、第4水準2−80−44]《えんどう》下り飲み百臂相|聯《つら》なる〉とあるを調合して、和漢に多き猿猴月を捉えんとする図が出来たのであろう。『法句譬喩経』三にいわく、愚なる猴王五百猴を率いて大海辺に至り、風が沫《あわ》を吹き聚《あつ》めて高さ数百丈となるを見、海中に雪山あり、そのうち快楽、甘果|恣《ほしいまま》に口にすと聞いたが今日始めて見る、われまず往き視て果して楽しくば還らじ、楽しからずば来って汝らに告ぐべしとて、聚沫《しゅうまつ》中に跳り込んで死んだと知らぬ猿ども、これはよほど楽しい所ゆえ留まって還らずと合点し、一々飛び入りて溺死したと。熱地の猴故雪山を楽土と心得たのだ。猿が猴智慧でその身を喪《うしの》うた例は支那にもあり。『北史』に高昂の母が児を浴せしめんと沸かした湯を婢が置き去った後、猿が綱を外《はず》し児を鼎《てい》中に投じ爛《ただ》れ死なしめたので、母が薪を村外に積ましめ、その婢と猿を焚殺したとある(『類函』四三一)。
一九〇八年板英国科学士会員ペッチグリウの『造化の意匠』巻二に、猴の心性について汎論した一章あって煩と簡との中を得居るからその大略を述べよう。すなわち猴類は人間に実用された事少しもなく、いまだかつて木を挽《ひ》き、水を汲むなど、その開進に必要なる何らの役目を務めず、ただ時々飼われて娯楽の具に備わるの一途あるのみ。それすら本性不実で悪戯《いたずら》を好み、しばしば人に咬《か》み付く故十分愛玩するに勝《た》えず。されどその心性人に類せる点多きは真に驚嘆すべし、ダーウィンは猴の情誼厚きを讃《ほ》め、あるアメリカの猴がその子を苦しむる蠅を払うに苦辛し、手長猿が水流中に子の顔を洗うを例示し、北アフリカの某々種の猴どもの牝はその子を喪うごとに必ず憂死し、猴の孤児は他の牝牡の猴必ずこれを養い取って愛撫すといった。ジョンソン説に、手長猿は同類甚だ相愛すれど一たび死ねば構わぬに反し、氏が銃殺した猩々の屍を他の猩々どもが運び去ったと。ある人『ネーチュル』雑誌へ出せしは、その園中に放ち飼える手長猿の一牡児、木から堕ちて腕節外れると、他の猿一同厚く世話焼く、特に篤志だったはその児に何の縁なき一老牝で、毎日くれた甘蕉実《バナナ》を自ら食わずにまず病猿に薦めた。一つの猿が怖れ、痛み、もしくは憂いて号《さけ》ぶ時は一同走り往きてこれを抱え慰めたと。キャプテーン・クローかつて航海せし船に種も大きさも異なる数猴を積む、中に一種小さくて温良に、人に愛さるるも附け上がらず好《よ》く嬉戯するものありて、衆猴これを一家の秘蔵子のごとく愛したが、一朝この小猴病み付いてより衆猴以前に倍してこれを愛し、競うてこれを慰むるに力《つと》め、各|旨《うま》い物を竊《ぬす》んで少しも自ら味わわず病猴に与え、また徐《しず》かにこれを抱いて自分らの胸に擁《かか》え、母が子に対するごとく叫んだが、小猴は病悩に耐えず、悲しんで予の顔を眺め、予に援苦を求むるふりして嬰児のように鳴いた。かくて人も猴も出来る限り介抱に手を尽したが養生相叶わず、久しからぬ内に小猴は死んだという。またサー・ゼームス・マルクムも東インド産の二猴を伴れて航海中、一猴過って海に陥るを救わんとて他の一猴その身に絡《からも》うた縄を投げたが短くて及ばず、水夫が長い縄を投げると今落ちた猴たちまちこれを執え引き揚げられた。ジョンソン大尉インドバハール地方で猴群に愕《おどろ》かされてその馬騒ぎ逸《のが》れし時、鉄砲を持ち出して短距離から一猴を射《う》ち中《あ》てしに、即時予に飛び掛かるごとく樹の最下枝に走り降り、たちまち止って血をあびたる場所を探り抓《つま》んで予に示した。その状今に至って眼前にあり、爾来また猴を射った事なし、予幕中に入りて一行にこの事を語りおわらぬ内、厩卒来りてかの猴死んだと告ぐ、因って尸《しかばね》を求めしむるに他の猴ども、その屍を持ち去って一疋も残らずと。
熊楠いわく、故ロメーンズ説に猴類の標本はどうしても十分集まらず、これはその負傷から死に至る間の惨状人をして顔を背《そむ》けしむる事甚だしきより、誰もこれを銃殺するを好まぬからだと。『三国志』に名高い呉に使して君命を辱《はずかし》めなんだ蜀漢の※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]芝《とうし》は、才文武を兼ねた偉物だったが、黒猿子を抱いて樹上にあるを弩《ど》を引いて射て母に中てしにその子ために箭《や》を抜き、木葉を巻きてその創《きず》を塞《ふさ》ぐ、芝嘆じてわれ物の性に違《たが》えり、それまさに死せんとすと、すなわち弩を水中に投じたがやがて俄《にわか》に死んだという。南唐の李後主青竜山に猟せし時、一牝猴網に触れ主を見て涙雨下し稽※[#「桑+頁」、第3水準1−94−2]《けいそう》してその腹を指ざし示す。後主人をして守らしむるにその夕二子を生んだ。還って大理寺に幸し囚繋を録するに、一婦死刑に中《あた》れるが妊娠中ゆえ獄中に留め置くと、いくばくならず二子を生んだ。後主猴の事に感じ死刑を減じ流罪に止《とど》めた(『類函』四三二)。
日本にも、櫛笥殿北山大原の領地で銃もて大牝猴を覘《うかが》うに、猴腹を示し合掌せしにかかわらず打ち殺し、その祟《たた》りで煩い死んだと伝う(『新著聞集』報仇篇)。今年元日の『大正日々』紙に、越前の敦賀郡愛癸村字刀根の気比《けひ》神社は浪花節の勇士岩見重太郎が狒々《ひひ》を平らげし処という。今も祭礼に抽籤《ちゅうせん》もて一人の娘を撰み櫃《ひつ》に入れ、若者|舁《かつ》ぎ行きて神前に供う。供わった娘は後日良縁を得とて競うてこれに中らんと望む。この村へ毎年二、三百疋の猴来り作物を荒すを村人包囲して捕え子猿を売る。孕んだ猴は腹を指さし命を乞うとあった。またしばしば熊野の猟師に聞いたは、猴に銃を向けると合掌して助命を乞う事多しと。これを法螺譚《ほらばなし》とけなし去らんとする人少なからぬが、一概にそうも言えぬ。数年前予が今この文を草し居る書斎に対して住みいた芸妓置屋の女将が愛翫したカジカ蛙が合掌して死んだは信心の厚い至りと喋々《ちょうちょう》して、茶碗の水ででも沾《うるお》したものか、川穀(ズズダマ)大の涙を落し坊主に読経させて厚く葬ったと聞いた。善男信士輩、成湯《せいとう》の徳は禽獣に及びこの女将の仁は蛙を霑《うる》おすと評判で大挙して弔いに往ったは事実一抔|啖《くわ》されたので、予が多く飼うカジカ蛙が水に半ば泛《うか》んで死ぬるを見るに皆必ず手を合せて居る。これはこの蛙の体格と死に際の動作がしからしむるので念仏でも信心でもない。チャーレス・ニウフェルドの『カリーファの一囚人』(一八九九年板)に、著者が獄中にあって頭上で夥しく砲丸破裂の憂目《うきめ》を見た実験談を述べて、その時獄中の人一斉に大腹痛大下痢を催したと書いた。われわれ幼時厳しく叱《しか》られ驚愕《きょうがく》措《お》く所を知らぬ時も全くその通りだった。因って想うに猴も人も筋肉の構造上から鉄砲など向けらるると自ずと如上《じょじょう》の振る舞いをするので、最初は驚怖が合掌を起し、追々恐怖が畏敬に移り変って合掌する事となったので、身持ちの牝猴も女も、恐怖極まる時は思わず識らず指が腹に向くので、さもなき牡猴や男にも幾分その傾向を具え居るので、時として孕婦の真似するよう見えるのでなかろうか。
ペッチグリウ博士続けていわく、予かつて高等哺乳動物の心室と心耳の動作を精測したき事あって一疋の猴の躯を嚢《ふくろ》に入れてひっ掻かるるを防ぎ、これにクロロホルムを施すに猴あたかも予の目的を洞察せるごとく、悲しみ気遣いながら抵抗せず、予の為《な》す任《まま》に順《したが》いしは転《うた》た予をして惻隠《そくいん》の情に堪えざらしめた。その行い小児に強いられてやむをえず麻薬を施さしむるに異ならず、爾来どんな事あるも予は再び猴に麻薬を強うるを欲せず。またある時ロンドンの動物園で飼いいた黒猩(チンパンジー)が殊《こと》のほか人に近い挙止を現ずるを目撃した。それは若い牝だったが、至って心やすい番人よりその大好物なる米と炙肉汁の混ぜ物を受け徐《しず》かに吸いおわり、右手指でその入れ物ブリキ缶《かん》の底に残った米を拾い食うた後、その缶を持って遊ぼうとするを番人たって戻せと命じた。そこで黒猩|暴《にわ》かにすね出し、空缶を番人に投げ付け、牀《とこ》に飛び上り、毛布で全身を隠す、その体《てい》気まま育ちの小児に異ならなんだ。ロメーンズの記に、牝猩々が食後空缶を倒《さかさま》に頭に冠《かぶ》り観客が見て笑うを楽しみとした事あり。サヴェージ博士は黒猩時に遊楽のみのために群集し、棒で板を打って音を立つ事ありというた。猴どもが動物園内で軽業を面白|可笑《おか》しく楽しむは皆人の知るところで、機嫌好く遊ぶかと見ればたちまちムキになって相闘い、また毎度人間同様の悪戯をなす。アンドリウ・スミス男喜望峰で見たは、一士官しばしばある狗頭猴を悩ます、ある日曜日その士盛装して来るを見、土穴に水を注ぎ泥となし、俄《にわか》に投げ掛けてその服を汚し傍人を大笑せしめ、爾後その士を見るごとに大得色を現じた由。
猴は極めて奇物を好む。鏡底に自分の影映るを見て他の猴と心得、急にその裏を覗き見る。後、その真にあらざるを知り大いに誑《たぶら》かされしを怒る。また弁別力に富む。レンゲルいわく、一度刃物で怪我《けが》した猴は二度とこれに触《さわ》らず、あるいは仔細に注意してこれを執る。砂糖と蜂を一緒に包んだのを受けて蜂に螫《さ》されたら、その後かかる包みを開く前に必ず耳に近付けて蜂の有無を聞き分ける。一度ゆで卵を取り落して壊《こわ》した後は、卵を得るごとに堅い物で打ち欠き指もてその殻を剥《は》ぐ。また機巧あり、ベルトが睹《み》た尾長猴はいかにこんがらがった鎖をも手迅《てばや》く解き戻し、あるいは旨く鞦韆《ぶらんこ》を御して遠い物を手に取り、また己れを愛撫するに乗じてその持ち物を掏《す》った。キュヴィエーが飼った猩々は椅子を持ち歩いてその上に立ち、思うままに懸け金をはずした。レンゲルはある猴は梃《てこ》の[#「梃《てこ》の」は底本では「挺《てこ》の」]用を心得て長持《ながもち》の蓋《ふた》を棒でこじあけたというた。ヘーズン一猴を飼いしに、その籠《かご》の上に垂れた木の枝に上らんと望めど、籠の戸の上端に攀《よ》じ登って始めて達し得。しかるにこの戸を開けばたちまち自ずから閉ずる製《つくり》ゆえ何ともならず。その猴取って置きの智慧を揮《ふる》い、戸を開いてその上端に厚き毛氈を打ち掛け、戸の返り閉づるを拒《ふせ》ぎ、やすやすと目的を遂げたそうだ。シップは喜望峰狗頭猴、下より来る敵を石などを集め抛下《ほうか》して防ぐといい、ダムピエート・ウェーファーは猴が石で牡蠣《かき》を叩き開くを
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