が多少仏経の有翅飛鬼より生ぜるは馬琴の『烹雑記《にまぜのき》』に説く所、理《ことわり》あり。されば天狗は系図上コルゴの孫だ。何に致せ、古来学者を閉口させた平猴をコルゴと定めたは、予の卓見と大天狗の鼻を蠢《うごめ》かす。
また優陀摩仙が一たび神足を失して、水陸到る処物の声に正念を擾《みだ》されたちゅう譚から出たらしいは、この辺で熊野の神が、田辺町より三里足らずの富田の海辺に鎮坐し掛かると、波の音が喧しい、それを厭《いと》うて山へ上ると松籟《しょうらい》絶えず聞えるので「波の音聞かずがための山|籠《ごも》り、苦は色かへて松風の声」と詠じて、本宮へ宿替えされたてふのだ。
『一話一言』一五にいわく、〈『寿世青編』いわく、伏気に三種眠法あり、病竜眠るにその膝を屈するなり、寒猿眠るにその膝を抱くなり、亀鶴眠るにその膝を踵《つ》くなり〉、今も俗に膝を抱いて眠るを猿子眠りというなりと。日本のを見ぬが熱地の諸猴を親しく見しに、猴ほど夜眼の弱いものはなく、日が暮れれば膝を立てて坐し、頭を膝に押し付け手で抱えて睡《ねむ》る。人が起すとちょっと面を揚げ、眼を瞬《またた》きしまた俯《うつ》ぶき睡る。惟うに日本の猴も同様でこれを猿子眠りというのだろ。頼光《らいこう》が土蜘蛛《つちぐも》に悩まさるる折、綱、金時《きんとき》が宿直《とのい》する古画等に彼輩この風に居眠る体を画けるを見れば、前に引いた信実の歌などに深山隠《みやまがく》れの宿直猿《とのいざる》とあるは夜を守って平臥せぬ意と見ゆ。眼が見えぬからのみでなく、樹上に夜休むに防寒のためかくして眠るのだろ。ロバート・ショー『高韃靼行記』に一万九千フィートの高地で夜雲に逢うた記事あっていわく、こんな節は跪《ひざまず》いて下坐し、頭を両膝間に挟《はさ》むようにして、岸に凭《もた》せ、頭から総身を外套で洩《も》れなく被い、風強からずば外套内を少し脹《ふく》らせ外よりも暖かい空気を呼吸するに便にす、ただし足最も寒き故自身の諸部をなるべく縮める、かくして全夜安眠し得べし、外套だけ被って足を伸ばし臥《ね》ては束の間も眠られぬと。これすなわち猿子眠りだ。予はこれを知らず高山に寒夜平臥して足を不治の難症にしおわったから、記して北荒出征将士の参考に供う。このついでに第四図に示すロリスはもっとも劣等な猴で、南インドとセイロンに産し夜分忍び歩いて虫鳥を食うために至って巨眼だが、昼間眠る態が粋のまた粋たる猿子眠りだ。さて吾輩在外の頃は、いずれの動物園でも熱地産の猴や鸚哥《いんこ》を不断人工で熱した室に飼ったが、近時はこれを廃止し食物等に注意さえすれば、温帯寒暑の変りに馴染《なじ》み、至って健康に暮すという。何事も余り世話焼き致さぬがよいらしい。
[#「第4図 ロリス」のキャプション付きの図(fig2539_04.png)入る]
上引、李時珍猴の記載に尻に毛なしとあるが、毛がないばかりでなく、尻の皮硬化して樹岩に坐するに便あり。発春期には陰部とともに脹れ色増す。古ギリシア外色盛行の世には、裸体少年が相撲場の砂上に残した後部の蹟を注意して必ず滅さしめ、わが邦にも「若衆の尻月を見て離れ得ぬ、念者《ねんじゃ》や桂男《かつらおとこ》なるらん」など名吟多し(『後撰夷曲集』)。しかるに猴は尻の色が牝牡相恋の一大助たるのだ。本邦の猴は尻の原皮で栗を剥《は》ぐとて栗むきと呼び、何の義か知らねど紀州でギンガリコと称す。西半球の猴は一同この原皮を欠き、アフリカのマイモン猴は顔と尻が鮮《あざ》やかな朱碧二色で彩《いろど》られ獣中最美という。
そもそも本篇は発端に断わった通り、読み切りのつもりだったが、人はその乏しきを憾《うら》み、われはその多きに苦しむ。積年集めた猴話の材料牛に汗すべく、いずれあやめと引き煩いながら書き続くる内、概言の第一章のみでも、かように長くなったから、第二章以下は改めて続出とし、ここに元本章の尻纏《しりまと》めに猴の尻の珍談を申し上げよう。
アリストテレスが夙《はや》く猴を有尾、無尾、狗頭の三類に分ったは当時に取っての大出来で、無尾は猩々、猿猴等、日本の猴等は有尾、さて狗頭猴はアラビアとアフリカに限り生ずる猛性の猴だが、智慧すこぶる深く、古エジプトで神と崇められた。人真似は猴の通性で、『雑譬喩経』に猴が僧の坐禅の真似して樹から落ちて死んだ咄《はなし》あり。上杉景勝平素笑わなんだが猴が大名の擬《まね》して烏帽子《えぼし》を戴《いただ》くを見て吹き出したといい、加藤清正は猴が『論語』を註するつもりで塗汚すを見、汝も聖賢を慕うかと笑うた由。パーキンスの『アビシニア住記』一にアラブ人酒で酔わせて狗頭猴を捕える由言い、氏一日読書する側にこの猴坐して蠅《はえ》を捉え、またその肩に上りて入墨《いれずみ》した紋を拾わんと力《つと》めおり、氏が喫烟に立った間に氏の椅子に座し膝に書を載せ沈思の体までは善《よ》かったが、一枚一枚|捲《めく》り裂きて半巻を無にした所へ氏が帰った。また氏がちょっと立つごとに跡へ坐って烟管《キセル》を口にし、氏帰れば至って慎んで返却したは極めて可笑《おか》しかったとある。またいわくすこぶる信ずべき人から聞いたは、猴|曳《ひ》きが寺の鐘を聴いて如法に身を浄めに行くとて、平生教えある狗頭猴に煮掛けた肉の世話を委ね置くと、初めは火を弄《もてあそ》びながら番したれど、鶏肉熟せるを見て少しずつ盗み食いついに平らげてしまい、今更骨と汁のほかに一物なきを知って狼狽《ろうばい》の末呻吟する、たまたま、鳶《とび》が多く空に舞うを見て自分の尻赤く鶏肉に擬《まが》うに気付き、身を灰塵《かいじん》中に転《ころ》ばして白くし、越後獅子《えちごじし》様に逆立ちこれを久しゅうせるを鳶が望んで灰塚の頂に生肉二塊ありと誤認し、二、三羽下り撃つところを取って羽生えたまま煮え沸く鍋《なべ》に押し込むを、向いの楼の上で喫烟しながら始終見届けた人ありと。『嬉遊笑覧』に『犬筑波集《いぬつくばしゅう》』猿の尻木枯ししらぬ紅葉かな、『尤《もっとも》の草紙』赤き物猴の尻、『犬子集』昔々《むかしむかし》時雨《しぐれ》や染めし猿の尻、また丹前能日高川の故事を物語るところになんぼう畏《おそ》ろしき物語にて候、猿が尻は真赤なと語りぬとあり。これら皆幼稚の者の昔々を語る趣なり。猿は赤いといわんためまた猿と蟹の古話もあればなり、赤いとはまづかくと言うの訛りたるなり。まづかくは真如これなり、それを丹心丹誠の丹の意にまっかいといえるは偽りなき事なるを、後にその詞を戯れて猿の尻など言い添えて、ついに真ならぬようの事となって今はまっかな啌《うそ》という、これは疑いもなく明白なるをまっかというなれど、実は移りて意の表裏したるなるべしと見ゆ。これで予も猿の尻は真赤いな。[#地から2字上げ](大正九年二月、『太陽』二六ノ二)
(二) 性質
概言中に述べた平猴に似た物が明の黄省曾の『西洋朝貢典録』中と『淵鑑類函』二三四に記載さる。その文異同ある故|両《ふた》つながら参酌して書くと、〈阿魯《あろ》国一名唖魯、西南の海中にあり、その国南は大山、北は大海、西は蘇門荅剌《スマトラ》国界、国語婚喪等の事|爪哇《ジャワ》と相同じ、山に飛虎を出す、その状猫のごとく、灰色にして肉翅、蝙蝠のごとく、能く走り能く飛ぶ、これを獲ればすなわち死す〉。スマトラの東にあるなり、西南でなくて東南海中にある蘭領アル島にほかならじ。いわゆる飛虎はアル島に産するベタウルスの一種らしい。これはカンガルーなどと同じく、袋獣類の物で平猴(コルゴ)と縁がない。
それから前引の「波の音聞かずがための山籠り苦は色かへて松風の声」てふ歌は、熊野の神さえ海辺で波、山中で松風の音が耳に障る。いわんや人間万事思うままに行くものかという訓《おし》えの神詠とかで、今も紀州の人は不運な目に逢うごとにこれを引いて諦めるが、熊野猿ちゅう諺《ことわざ》通りよほどまずい神詠だ。さりとて随分名高かった証拠は近松門左の戯曲『薩摩歌』中巻お蘭比丘尼の詞《ことば》に「あのおしゃんす事わいの、苦は色替ゆる松風通り、風の吹くように、身にも染まぬ一時恋」。半二と加作の『伊賀越道中双六《いがごえどうちゅうすごろく》』岡崎の段の初めに「世の中の、苦は色かゆる松風の、音も淋しき冬空や」などある。全体この神詠なるもの何時頃《いつごろ》から文献に見え出したのか、読者諸君の教えを乞う。
『水経注《すいけいちゅう》』巻三三に広渓峡に手長猿多きもその北岸には決してこれを産せぬとある。何のへんてつもない記事と看過しいたところ、たまたま『大英百科全書』巻二二フォルツ博士の実験談を引いて、スマトラ島の諸地にシャマンとウォーウォーと二種の手長猴雑居し、パレンバン地方でも山地では雑居す。しかるにこの地方にあるレマタン川に限り、彼らが容易に飛び越え得るほど狭き上流までも西岸にシャマン、東岸にウォーウォー棲んで相《あい》雑《まじ》わる事なきは希代だ。前者は一声、後者は二声ずつ鳴くからこれを捕え見ずともこの界別はよく判るというを読んで、魏帝が長江の南北を限れるを認め嘆ぜしを思い出し、『水経注』の説もしかと事実に基づいたものと知った。
フンボルトの『回帰線内亜米利加旅行自談』に、所により鰐や鮫が人を犯すと犯さざるの異なる由を述べ、猴も同様でオリノコやアマゾン河辺のインデアン人は、同一種の猴ながらある島に住むはよく人に懐《なつ》き馴れるが、その近所の大陸に住む奴は捕えらるるや否や、甚だしく怖れまた嗔《いか》ってたちまち死するを熟知する故、猿取りに無駄骨を折らぬ。どうも地勢が違うばかりでかように性質が異なると説き去りがたいとあるが、定めて食物とか物の乾湿とか雑多の原因がある事と惟わる。したがってわが邦の猴舞わしが、四国猴は芸を仕込むに良いの、熊野猴は生まれ付きが荒いのというも年来の経験で根拠ある説らしい。
『連珠合璧《れんじゅがっぺき》』上に猿とあらば梢をつたうとあり、俗諺にも猴も木から落ちるというて、どの猴も必ず楽に木を伝い得るよう心得た人が多い。しかしワリスの『巫来《マレー》群島記』(一八八三年板、一三三頁)に、スマトラに多い体長く痩《や》せ、尾甚だ長いセムノビテクス属の猴二種は、随分大胆で土人を糸瓜《へちま》とも念《おも》わず、しかるに予が近づき瞰《なが》めると一、二分間予を凝視した後《のち》逃げ去るのが面白い。一樹の枝より少し低い他の樹の枝へ飛び下るに、一の大将分の奴が無造作に飛ぶを見て他の輩が多少|慄《おのの》きながら随い飛べど、最後の一、二疋は他の輩の影見えぬまで決心が出来ず、今は全く友達にはぐれると気が付き捨鉢《すてばち》になって身を投げ、しばしば細長い枝に身を打ち付け廻った後、地上へドッサリ堕つる睹《み》て可笑《おか》しさに堪えなんだとあるから、猴の木伝いもなかなか容易でないと見える。
世に猴智慧というは『甲子夜話』続二一に、四国の猴は余国よりは小さくして舞伎を教えて能く習う、因って捕え他国へも出して利を得るとぞ。この猴に器用なると不器用なると二品あり、不器用なるは芸を為《な》す事能わざる故選びに念入る事の由、その選ぶ術は、まず一人を容《い》るべきほどの戸棚を造り、戸を閉《し》める時自ずから栓下りて開けざるごとくして中に食物を置き、猴多き山に持ち往きて人まずその内に入って食物を食い出づるを、猴望み見て人の居ざるを待って入って食物に就《つ》く、不器用なる猴は食う時戸を閉づる事を知らず、故に人来ればたちまち逃れて山中に走る、器用なるは戸棚に入り食せんとする時、人の来るを慮《おもんぱか》りわざと戸を閉づ。兼ねてその機関《からくり》を作りたるもの故すなわち栓ありて闢《ひら》けず、ついに人に捕えらると、ここを以て智不智を撰ぶとぞ。いわゆる猴智慧なるかなと見ゆ。未熟の智慧を振うて失策を取るを猴智慧といい始めたらしい。されば仏経にしばしば猴を愚物とし、『百喩経』下に猴大人に打たれ奈何《いかん》ともする能わずかえって小児を怨《うら》むとあり。また猴が一粒の豆を落せるを拾わん
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