鳴く悲し、猿鳴く三声涙衣を霑《うるお》す〉とはよく作った。「深き夜のみ山隠れのとのゐ猿ひとり音なふ声の淋しさ」などわが邦の名歌は多く支那の猿の詩に倣《なろ》うたものじゃ。
 猿は樹を飛び廻る事至って捷《はや》く、夫婦と餓鬼ばかり棲んで群を成さずすこぶる捕えがたい。『琅邪代酔篇』三八に、〈横州猿を捕えて入貢す、故に打ち捕るを事とするは皆南郷の人、旬日村老一人来り告ぐ、三百余人合囲して一小黒猿を独嶺上に得、もし二百人を益し、ことごとく嶺木を伐らば、すなわち猿を獲べしと、その請のごとくす、三日の後一猿を舁《かつ》ぎて至る〉。水を欲しい時のみ地へ下り直立して歩む。本邦の猴など山野にあれば皆伏行し、飼って教えねば立って行《ある》かず、猩々なども身を斜めにして躄《いざ》り歩く。故に姿勢からいえば猿は一番人間に近くその脚とても画にかいたほど短からず、立派に胴より長い。しかるにその臂が非凡に長いので脚がいと短く見える。
『七頌堂識小録』に、猿を貢する者、その傍に※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴数十を聚《あつ》め跳ね喧《かしま》しからしむ。その言に、猿は人の泣き声を聞くと腸絶えて死ぬからこうして紛らかすと、〈猿声悲し、故に峡中裳を沾《ぬら》すの謡あり、これすなわち人の声の悲しきを畏る、異なるかな〉とあるが何の異な事があるものか、人間でも人の罪よりまず自分を検挙せにゃならぬような官吏が滔々《とうとう》皆これだ。猿は人に近付かぬ故その天然の性行を睹《み》た学者は少ない。したがって全然信認は如何だが、昔から永々その産地に住んだ支那人の説は研究の好《よ》き資料だ。例せば『本草啓蒙』に引いた『典籍便覧』にいわく、〈猿性静にして仁、貪食せず、かつ多寿、臂長く好くその気を引くを以てなり、その居相愛し、食相禁ず〉と節米の心掛けを自得せる故、馬鈴薯料理の試食会勧誘も無用で、〈行くに列あり、飲むに序あり、難あればすなわちその柔弱者を内にして、蔬を践《ふ》まず、山に小草木あれば、必ず環りて行き、以てその植を遂ぐ、猴はことごとくこれに反す〉。これなら桃中軒の教化も危険思想の心配も要《い》らぬ。誠に以てお猴目出たやな。
 支那の本草書中最も難解たる平猴また風母、風生獣、風狸というがある。唐の陳蔵器《ちんぞうき》説に風狸|※[#「巛/邑」、第3水準1−92−59]州《ようしゅう》以南に生じ、兎に似て短く、高樹上に棲息し、風を候《うかご》うて吹かれて他樹に至りその果を食う。その尿乳のごとく甚だ得がたし、諸風を治すと。明の李時珍諸書を考纂していわく、その獣嶺南および蜀西山林中に生ず、状《かたち》は猿猴のごとくで小さし、目赤く尾短くてなきごとく青黄にして黒し、昼は動かず、夜は風に因って甚《いと》捷く騰躍し巌を越え樹を過ぎて鳥の飛ぶごとし、人を見れば羞《は》じて叩頭《こうとう》憐みを乞う態のごとし、これを打てばたちまち死す、口を以て風に向えば復活す、その脳を破りその骨を砕けばすなわち死すと。
[#「第3図 飛狐猴」のキャプション付きの図(fig2539_03.png)入る]
 漢の東方朔の『十洲記』には南海中の炎洲に風生獣あり、豹に似て青色、大きさ狸(野猫)のごとし、網で捕えて薪《まき》数車を積み焼くに、薪尽きても燃えず灰中に立ち毛も焦げず、斫《き》っても刺しても入らず、打てば灰嚢のごとし、鉄槌《かなづち》で数十度打ってようやく死ねど、口を張って風に向ければ暫くして復《また》活《い》く、石菖蒲でその鼻を塞《ふさ》げば即死す。その脳を菊花に和し十斤を服せば五百年生き得と。唐の孟※[#「王+官」、第3水準1−88−12]の『嶺南異物志』には、この獣常に一杖を持って指《さ》すに、指された鳥獣皆去る能わず、人を見れば杖を捨つ、人この獣を捉えあくまで打てば杖を指し示す、人その杖を取って物を指し欲するところに随わしむと載す。奇怪至極な話だがつらつら考えるにこれはコルゴを誇張したのだ。コルゴ(第三図)英語でフライイング・レムール(飛狐猴)、またフライイング・キャット(飛猫)、「乳母ここにももんがあがと子供いい」というモモンガに似たようだが、全く別類で、モモンガは前後脚の間にのみ張った皮膜ありて樹上から飛び下るを助くるが、コルゴの飛膜は前後脚間に止まらず前脚と頸側、後脚と尾の間にも足趾間にも張られ居る状《さま》蝙蝠《こうもり》に髣髴《ほうふつ》たり。だが蝙蝠の翅膜に毛がないと異なり、コルゴの膜は下面ほとんど裸で上面は毛が厚く生え居る。昼は蝙蝠同然樹からぶら下がって睡り、夜は件《くだん》の膜を張って樹から樹へ飛び歩き葉と虫を食う。清水の舞台から傘さして飛ぶように無難に飛び下るばかりで、鳥や蝙蝠のごとく一上一下はし得ないから、南方先生の居続け同然数回飛べばどん底へ下り、やむをえず努力して樹梢に昇り、また懲りずまに飛び始めざるを得ず。ただし居続けも勉強すると随分長くやれる。コルゴ先生も今はなかなか上手に飛び、数百ヤードの距離を飛ぶにその距離五分の一だけ下るとは飛んだ飛び上手だ。この獣以前は猴の劣等な狐猴の一属とされたが、追々研究して蝙蝠に縁近いとか、ムグラモチなどと等しく食虫獣だとか議論定まらず。特にコルゴのために皮膜獣なる一類を建てた学者もある。惟うに右述ぶごとくほとんど横に平らに飛び下るから支那で平猴と名づけたので、『十洲記』に南海中の炎洲に産すというも、インド洋中の熱地ジャワ、ボルネオ、スマトラを指したものであろう。現にこれら諸島とマレー半島、シャム、ビルマ、インドに一種を出すがそれに四、五の変種あり。それより耳短く、頭小さく、上前歯大なる一種はルソンに産す。その毛オリヴ色で白き斑《ふ》あり猫ほど大きく、尋常の方法では殺し切れぬくらい死にがたい(一八八三年ワリスの『巫来《マレー》群島記』一三五頁)のが、平猴の〈大きさ狸(野猫)のごとし、その色青黄にして黒、その文豹のごとし、これを撃っては倏然《しゅくぜん》として死す。口を以て風に向かえば、須臾《しゅゆ》にしてまた活く〉(『本草綱目』五一)てふ記載に合い、昼|臥《ふ》し夜飛び廻る上に、至って死にがたい誠に怪しいもの故種々の虚談も支那書に載せられたのだ。さて仙人能く飛ぶに合せてその脳を食えば長生すとか、その杖を得れば欲するところ意のごとしとかいい出し、支那人は中風大風(癩病)等を風より起ると見たから、風狸の一名あるこの獣の尿は諸風を治すと信じたのだ。昨今支那にコルゴを産すと聞かぬが、前述の仰鼻猴や、韓愈の文で名高い※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《わに》など、ありそうもない物が新しく支那で見出されて学者を驚倒させた例多く、支那の生物はまだとくと調査が済まない。したがって予は南支那に一種のコルゴが現存するか、昔棲んだかの証拠がそのうち必ず揚がると確信する。さて話はこれから段々いよいよ面白くなるんだからして、聞きねえ。[#地から2字上げ](大正九年一月、『太陽』二六ノ一)

       2

『仏本行集経』三三に、仏、成道《じょうどう》して最初に説法すべき人を念じ、優陀摩子《うだまし》然《しか》るべしと惟《おも》うに、一天神来りて彼は七日前に死んだと告ぐ。世尊内心智を揮《ふる》い、かの者死して非々想天に生まれ、八万四千大劫の後ここに堕落して飛狸身を受け、諸畜生を害しまた婬し、その報いで餓死して今度は地獄に生まるるはずと知ったとある。『経律異相』三九に、『毘毘曇婆沙《びびどんばしゃ》』を引いていわく、昔一国王常に優陀摩子を敬し魚食を施す、この仙人食時ごとに空を飛び王宮に詣《いた》り、王迎えて自ら抱いて金牀上に坐せしめ食を供うるを、仙人食い終って偈《げ》を説き、呪願して飛び去った。しかるに王事故あって他行するに臨み、この仙人気短ければ、王同然に給事|篤《あつ》くする者なくては大いに怒り、呪詛して王位を失わしめまた殺すだろうと心配の余り、王女に汝我に代りよく供養すべきやと問うに、能くすと答う。因って万端抜かりなきよう言い含めて出で立った。後日食事に仙人飛び来り、王女自ら迎え抱いて金牀上へ坐せしめた。ここでちょっと中入りに申し上ぐる。キリスト教では眼で視《み》とれたばかりが既に姦婬同然といい、儒書にも宋の華父督が孔父の妻を途に見、目|逆《むか》えてこれを送り曰く、美にして艶《えん》なりと、竹添《たけぞえ》先生の箋《せん》に、〈およそ女子の美を称うるは顔色を言う、すなわち艶はその光なり、美の尤《ゆう》なるは、必ず光気ありて人を動かす、三字ついに後世美人を賦して俑《よう》と為す〉とあれば飛び切りの代物だ。それから孔父を攻め殺してその妻を奪い、主君|殤公《しょうこう》の怒るを懼《おそ》れついにこれを弑《しい》したというから、二教ともに眼ほど性慾を挑発するものなしとしたのだ。しかるに『十善法語』にも見える通り、仏教には細滑というて肌に触《さわ》るを最も強く感ずるとす。されば仙人、王女の軟らかな手で抱かれ、すなわち神足を失い、食事済んで飛び去らんとすれど能わず。その体《てい》南方先生外国で十五年仙人暮しで大勉強し、ロンドン大城の金粟如来《こんぞくにょらい》これ後身と威張り続け、大いに学者連に崇《あが》められたが、帰朝の際ロンドン大学総長から貰《もろ》うた金を船中で飲み尽し、シンガポールへ著きて支那料理を食いたいが文なしの身の上、金田和三郎氏(只今海軍少将か大佐)に打ち明かし少々借り倒して上陸し、十町も過ぎぬ間に天草生まれのへちゃ芸妓を見て曰く、美にして艶なりと、たちまち鼠色の涎《よだれ》を垂らし、久米《くめ》仙人を現じて車より堕《お》ち掛ったに異ならず。仕方がないから王宮の後園へ歩み入り、修行して王女の細滑を忘れ切り、神足を恢復せんとしたが、ここは御庭先の栞《しお》り門、戸を立てるにも立てられぬ。象馬《ぞうめ》車乗の喧《かしま》しさに心いよいよ乱れて修行を得ず。地体城中の人民この大仙もし一度でも地を歩まば我ら近く寄りてその足を礼すべきに、毎度飛び来り飛び去るのみで志を遂げぬと嘆《かこ》ちいた。それを知りいた仙人一計を案じ、王女を頼み、城中にあまねく告げしめたは、今日に限り大仙王宮より歩み去れば礼拝随意と、聞いて人民大悦し、街路を浄《きよ》め、幡《はた》を懸け、香を焼《た》き、花を飾って歓迎する。その間を鹿爪《しかつめ》らしく歩んで城から遠からぬ林中に入り、神足を修せんとしたが、鳥が鳴き騒いで仙人修行し得ず。すなわち林樹を捨て河辺に到り、その本法を以て神足を修せんとするに水中魚鼈廻転の声が耳に障《さわ》る。因って山に上り惟《おも》うらく、我今善法を退失せるは皆衆生に由《よ》る。この返報に世間あらゆる地行、飛行、水性の衆生を一切害し尽すべき動物に生まれ変らんと。この悪誓願を発して死んだところ、従前善法浄行の報いで非想非々想天に生まれ、八万劫の長い間、寂静園中に閑静を楽しんだが、業報尽き已《おわ》ってこの地の答波樹林に還り、著翅狸身と作《な》って身広五十|由旬《ゆじゅん》、両翅各広さ五十由旬、その身量百五十由旬あり、この大身を以て空行水陸衆生を殺し、免るるを得る者なく、のち死して阿毘《あび》地獄に生まれたということじゃ。
『仏本行集経』に、飛狸、『経律異相』に、著翅狸、いずれも優陀摩仙が転生とあれば、同物に相違なく、華南で狸というはタライと呼ぶ野猫で、中橋文相好物のタヌキ(これも北支那や黒竜州に産す)でない。故に支那訳経の飛狸、著翅狸はコルゴの英名フライイング・キャット、飛猫に合う。上にも述べた通り、至極怪しい獣でインドにも産すれば(バルフォールの『印度事彙』二)いよいよ仏典の飛狸はコルゴと考定さる。さて『僧伽羅刹《そうぎゃらせつ》所集経』一と二に有翅飛鬼、また羅刹有翅とあり、ハーバート・スペンセルが欧州で天魔に翅を画《えが》くは、蝙蝠を怪獣とせるに基づくといえるごとく、インドの羅刹鬼に翅ありとするは幾分蝙蝠に象《かたど》ったるべきも、右に引いた経文で見ると、多分はコルゴに根源すというべし。邦俗いわゆる天狗
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