あに》図らんや人は猴よりもまた一層の猴智恵あり、機械仕懸けで動きの取れぬよう作った履故、猴一たび穿きて脱ぐ能わずとある。日本でも熊野人は以前黐で猴を捕えたと伝え、その次第ストラボンの説に同じ。『淵鑑類函』に阮※[#「さんずい+研のつくり」、35−4]封渓で邑人《むらびと》に聞いたは、猩々数百群を成す。里人酒と槽《ふね》を道傍《みちばた》に設け、また草を織りて下駄《げた》を作り、結び連ね置くを見て、その人の祖先の姓名を呼び、奴我を殺さんと欲すと罵って去るが、また再三相語ってちょっと試みようと飲み始めると、甘いから酔ってしまい、下駄を穿くと脱ぐ事がならずことごとく獲《と》られ、毛氈《もうせん》の染料として血を取らると載せたが、またエリアヌスの説に似て居る。猩々はもと※[#「けものへん+生」、第4水準2−80−32]々と書く。
『山海経《せんがいきょう》』に招揺の山に獣あり、その状|禺《ぐう》(尾長猿)のごとくして白耳、伏して行《ある》き人のごとく走る、その名を※[#「けものへん+生」、第4水準2−80−32]々という。人これを食えば善く走る。『礼記《らいき》』に〈猩々善く言えども禽獣を離れず〉など支那に古く知れたものでもと支那の属国|交趾《こうし》に産したらしい。和漢とも只今猴類中ほとんど人の従弟ともいうべきほど人に近い類人猴の内、脳の構造一番人に近いオラン・ウータンを猩々に当て通用するが、これはボルネオとスマタラの大密林に限って樹上に棲《す》み、交趾には産せぬ。古書に、〈猩々黄毛白耳、伏して行き人のごとく走る、頭顔端正、数百群を成す〉などあるが、一つもオラン・ウータンに合わぬ。『荀子』に〈猩々尾なし〉とありて人に近き由述べ居るが、南部支那に産する手長猿も、無尾だから、攷《かんが》えると最初猩々と呼んだは手長猿の一種にほかならじ、後世赤毛織りが外国より入って何で染めたか分らず、猩々の血てふ謬説《びゅうせつ》行われ、それより転じて赤毛で酒好きのオラン・ウータンを専ら猩々と心得るに及んだのだ。オランは支那になく、たまたまインド洋島にあるを見聞し、海中諸島に産すというところを、例の文体で海中に出づと書いた支那文を日本で読みかじり、『訓蒙図彙大成』に海中に棲む獣なりと註して、波に囲まれた岩上に猩々を図し、猩々の謡曲には猩々を潯陽江《じんようこう》の住としたが、わだつみの底とも知れぬ波間よりてふ句で、もと海に棲むとしたと知れる。この謡《うたい》に猩々が霊泉を酒肆《しゅし》の孝子に授けた由を作ってより、猩々は日本で無性に目出たがられ、桜井秀君は『蔭涼軒日録《いんりょうけんにちろく》』に、延徳三年泉堺の富家へ猩々に化けて入り込み財宝を取り尽した夜盗の記事を見出された。かかる詐欺が行わるべしとは今の人に受け取れぬが、『義残後覚《ぎざんこうかく》』七、太郎次てふ大力の男が鬼面を冒《かぶ》り、鳥羽の作り道で行客を脅かし追剥《おいはぎ》するを、松重岩之丞が斫《き》り露《あら》わす条、『石田軍記』三、加賀野江弥八が平らげた伊吹の山賊鬼装して近郷を却《おびや》かした話などを参ずるに、迷信強い世にはあり得べき事だ。若狭《わかさ》に猩々洞あり。能登《のと》の雲津村数千軒の津なりしに、猩々上陸遊行するを殺した報いの津浪で全滅したとか(『若狭郡県志』二、『能登名跡志』坤巻)、その近村とどの宮は海よりトド上る故、トド浜とて除きあり、渡唐の言い謬《あやま》りかとある。トドは海狗の一種で、海狗が人に化ける譚北欧に多い(ケートレーの『精魅誌』)。惟《おも》うに北陸の猩々は海狗を誤認したのだろう。
 家康公が行水《ぎょうずい》役の下女に産ませた上総介《かずさのかみ》忠輝は有名な暴君だったが、その領地に無類の豪飲今猩々庄左衛門あり、忠輝海に漁して魚多く獲た余興に、臣民に酒を強《し》いるに、この漁夫三、四斗飲んで酔わず、城へ伴い還り飲ましむるに六斗まで飲んで睡《ねむ》る。忠輝始終を見届け、かの小男不審とてその腹を剖《さ》くに一滴もなし。しかるにその両脇下に三寸ばかりの小瓶《こがめ》一つずつあり。砕かんとすれども鉄石ごとくで破れず、その口から三斗ずつ彼が飲んだ六斗の酒風味変らず出た。忠輝悦んで日本無双の重宝猩々瓶と名づけ身を放さず、この殿酒を好み、この瓶に酒を詰め、五日十日海川池に入りびたれど酒不足せず、今猩々の屍を懇《ねんごろ》に葬り弔い、親属へ金銀米を賜わった由(『古今武家盛衰記』一九)。これは『斉東野語《せいとうやご》』に出た野婆の腰間を剖いて印を得たというのと、大瓶猩々の謡に「あまたの猩々大瓶に上り、泉の口を取るとぞみえしが、涌《わ》き上り、涌き流れ、汲《く》めども汲めども尽きせぬ泉」とあるを取り合せて造った譚らしい。
『野語』の文は〈野婆は南丹州に出《い》づ、黄髪|椎髻《ついけい》、裸形|跣足《せんそく》、儼然として一媼のごときなり、群雌牡なく、山谷を上下すること飛※[#「けものへん+柔」、第4水準2−80−44]《ひどう》(猴の一種)のごとし、腰より已下皮あり膝を蓋《おお》う、男子に遇うごとに、必ず負い去りて合を求む、かつて健夫のために殺さる、死するに腰間を手をもって護る、これを剖きて印方寸なるを得、瑩として蒼玉のごとし、文あり符篆に類するなり〉、これは腰下を皮で蓋い玉を護符または装飾として腰間に佩《お》びた無下《むげ》の蛮民を、猴様の獣と誤ったのだ。近時とても軍旅、労働、斎忌等の節一定期間男女別れて群居する民少なからず、古ギリシアやマレー半島や南米に女人国の話あるも全く無根でない(一八一九年リヨン板『レットル・エジフィアント』五巻四九八頁已下。ボーンス文庫本、フンボルト『南米旅行自談』二巻三九九頁已下。クリフォードの『イン・コート・エンド・カムポン』一七一頁已下)。さて野人の女が優種の男に幸せられんと望むは常時で、ギリシアの旧伝にアレキサンダー王の軍女人国に近付いた時、その女王三百人の娘子軍《じょうしぐん》を率い急ぎ来って王の胤を孕みたいと切願し、聞き届けられて寵愛十三昼夜にわたった。鳥も通わぬ八丈が島へ本土の人が渡ると、天女の後胤てふ美女争うて迎え入れ、同棲|慇懃《いんぎん》し、その家の亭主は御婿入り忝《かたじけ》なや、所においての面目たり、帰国までゆるゆるおわしませと快く暇乞《いとまご》いして他の在所へ行って年月を送ると(『北条五代記』五)。この事早く海外へ聞え、羨《うらや》ませたと見え、島名を定かに書かねど一五八五(天正十三)年すなわち『五代記』記事の最末年より二十九年前ローマ出版、ソンドツァ師の『支那大強王国史』に、「日本を距《さ》る遠からず島あり、女人国と名づく、女のみ住んで善く弓矢を用ゆ、射るに便せんとて右の乳房を枯らす(古ギリシア女人国話の引き写しだ)、毎年某の月に日本より商船渡り、まず二人を女王に使わし船員の数を告ぐれば、王何の日に一同上陸せよと命ず、当日に及び、女王船員と同数の婦女をして各符標を記せる履《くつ》一足を持たせて浜辺に趣き、乱雑に打ち捨て返らしむ。さて男ども上陸して各手当り次第に履を穿くと、女ども来って自分の符標ある履はいた男を引っ張り行く、醜婦が美男に配し女王が極悪の下郎に当るもかれこれ言わぬ定めだ。かくて女王が勅定《ちょくじょう》した月数が過ぎると「別れの風かよ、さて恨めしや、いつまた遇うやら遇わぬやら」で銘々男の住所姓名を書いて渡し、涙ながらに船は出て行く帆掛けて走る、さて情けの種を宿した場合に生まれた子が女なら島へ留めて跡目《あとめ》相続、男だったら父の在所へ送致する(ここギリシア伝説混入)」というが甚だ疑わしい。しかしこの話をしたは正しき宗教家で、この二年内にかの島へ往きその女人に接した輩から親しく聞いたと言う。ただし日本に居る天主僧の書信に一向見えぬからどうもますます疑わしいとある。世に丸の嘘はないもので、加藤|咄堂《とつどう》君の『日本風俗志』中巻に、『伊豆日記』を引いていわく、八丈の島人女を恋うても物書かねば文贈らず、小さく作った草履を色々の染糸を添えたる紙にて包み贈る。女その心に従わんと思えば取り収め、従わざればそのまま戻す云々。女童部《めわらべ》の[#「女童部《めわらべ》の」は底本では「女童部《めらわべ》の」]物語にする。女護島《にょごがしま》へ男渡らば草履を数々出して男の穿きたるを印《しる》しに妻に定むという風俗の残れるにやと、ドウモ女人国へ行きたくなって何を論じ掛けたか忘れました。エーとそれアノ何じゃそれからまた、十五世紀にアジア諸国を巡《めぐ》った露人ニキチンの紀行に多分交趾辺と思わるマチエンてふ地を記し、そこにも似た婦人、昼は夫と臥せど夜は外国男を買うた話が見える。これらの例を考え合すと〈野婆群雌牡なく、男子に遇うごとに、必ず負い去りて合を求む〉ちゅう支那説は虚談ならずと分る。日本で備前の三村家親へ山婆《やまんば》が美女に化けて通い、ついに斬られた話あれど負い去って強求すると聞かぬ。
『和漢三才図会』にいわく、〈『和名抄』、※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]《えん》、※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴《みこう》以て一物と為す、それ訛《あやま》り伝えて、猿字を用いて総名と為す、※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]猿同字〉と。誠にさようだがこの誤り『和名抄』に始まらず。『日本紀』既に猿田彦、猿女君《さるめのきみ》など猴と書くべきを猿また※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]と書いた。『嬉遊笑覧』に言える通り鴨はアヒルだが、カモを鳬と書かず鴨と書き、近くはタヌキから出たタナテ、またよくこの獣を形容したラクーン・ドグなる英語があるに今もバッジャー(※[#「けものへん+灌のつくり」、40−6]《まみ》、アナクマに当る)てふ誤訳を踏襲するに斉しく、今となっては如何《いかん》ともするなし。猿英語でギッボン、また支那音そのまま取ってユエン。黒猩、ゴリラ、猩々に次いで人に近い猴で歯の形成はこの三者よりも一番人に近い。手が非常に長いから手長猿といい、また猿猴の字音で呼ばる。その種一ならず、東南アジアと近島に産す。手を交互左右に伸ばして樹枝を捉え進み移る状《さま》、ちょうど一の臂《ひじ》が縮んで他の臂が伸びる方へ通うと見えるから、猿は臂を通わすてふ旧説あり、一|臂《ぴ》長く一臂短い画が多い。『膝栗毛』に「拾うたと思ひし銭は猿が餅、右から左《ひだり》の酒に取られた」この狂歌は通臂の意を詠んだのだ。
『本草綱目』に、〈猿初生皆黒し、而して雌は老に至って毛色転じて黄と為《な》る、その勢を潰し去れば、すなわち雄を転じて雌と為る、ついに黒者と交わりて孕む〉。これは瓊州《けいしゅう》猿の雌を飼いしに成熟期に及び黒から灰茶色に変わった(『大英百科全書』十一)というから推すと、最初雌雄ともに黒いが後に雌が変色するより変成女子と信じたり、『列子』、〈※[#「豸+兪」、41−1]《ゆ》変じて※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]と為る〉、『荘子』、〈※[#「けものへん+嬪のつくり」、第4水準2−80−54]狙《ひんそ》※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]を以て雌と為る〉と雌雄を異種に見立てたのだ。猿は臂長く膂力《りょりょく》に富み樹枝を揺《ゆす》って強く弾《はじ》かせ飛び廻る。学者これを鳥中の燕に比したほど軽捷《けいしょう》で、『呂覧』に養由基《ようゆうき》矢を放たざるに、※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]、樹を擁して号《さけ》び、『呉越春秋』に越処女が杖を挙げて白※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]に打ち中《あ》てたなどあるは、その妙技なみ大抵の事でない絶好の叙述と知れ、予も親しく聴いたが、猿が飛ぶ時ホーホーと叫ぶ声は大したもので耳が病み出す。寂しい処で通宵《つうしょう》これを聴く趣はとてもわが邦の猴鳴の及ぶところでなく、〈峡中猿鳴く至って清し、諸山谷その響きを伝え、冷々として絶えず、行者これを歌いて曰く、巴東三峡猿
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