り生じ、十頭の羅刹《らせつ》のために大海を将ち渡され、王大いに憂愁するを智臣|諫《いさ》めて、王智力具足すれば夫人の還るは久しからざる内にあり、何を以て憂いを懐《いだ》かんと言いしに、王答えて我が憂うる所以《ゆえん》は我が婦を取り還しがたきを慮《おもんぱか》らず、ただ壮時の過ぎやすきを恐ると言いしがごとしとあり。これは『羅摩延』(ラーマーヤナ)の長賦に、私陀実は人の腹から生まれず、父王子なきを憂い神に祈りて地中より掘り出すところ、その美色持操人界絶えて見ざるところとある故宝女といい、古インド人はセイロンの生蕃を人類と見ず、鬼類として羅刹と名づけた。十頭羅刹とはその酋長が十人一組で土人を統御し、それが一同に羅摩の艶妻を賞翫せんとて奪い去ったのであろう。王の智力もて夫人を取り戻すは成らぬ事にあらずというに答えて、ついには取り戻し得べきも、その間にわれも夫人も花の色の盛りを過ぎては面白い事も出来ぬでないかと羅摩の述懐もっとも千万に存ずる。それを散ればこそいとど桜はめでたけれ、浮世に何か久しかるべき、と諦め得ぬ羅摩の心を愚痴の極とし、無常の近づき至るほどいよいよ深く執著する者に比したのだ。
 さて羅摩王久しぶりで恋女房を難苦中より救い出し、伴うて帰国した後、一夜微服して城内を歩くと、ある洗濯師の家で夫妻詈り合う。亭主妻に向いわれは一度でも他男に穢《けが》された妻を家に置かぬ、薄のろい羅摩王と大違いだぞと言うた。その声|霹靂《へきれき》のごとく羅摩の胸に答え、急ぎ王宮に還って太《いた》く怒り悲しみ、直ちに弟ラクシュマナを召し私陀を林中で殺さしむ。ラクシュマナ、その嫂《あによめ》の懐胎して臨月なるを憐み、左思右考するに、その林に切れば血色の汁を出す樹あり、因ってその汁を箭《や》に塗り、私陀を林中に棄て、帰って血塗りの箭を兄王に示し、既に嫂を射殺したと告げた。私陀林中にさまよい声を放って泣く時、その近処に隠棲せるヴァルミキ仙人来って仔細を聞き、大いにその不幸に同情し、慰めてその庵へ安置し介抱すると、数日にして二子を生み、仙人これを自分の子のごとく愛育した、ほどへて羅摩ヤグナムの大牲《おおにえ》を行わんとす。これは『詩経』に※[#「馬+辛」、第3水準1−94−12]牡《せいぼう》既に備うとあり『史記』に秦襄公|※[#「馬+留」、第3水準1−94−16]駒《りゅうく》を以て白帝を祀《まつ》るとあって、支那で古く馬を牲にしたごとくインドでも委陀《ヴェーダ》教全盛の昔、王者の大礼に馬を牲にしたのだ。今羅摩が牲にせんとせる馬、脱《のが》れて私陀の二児の住所へ来たので、二児|甫《はじ》めて五歳ながら勇力絶倫故、その馬を捉《とら》え留《とど》めた。盗人を捕えて見れば我子なりと知らぬ身の羅摩、すなわちハヌマンを遣わし大軍を率いて征伐せしめたが、二児に手|甚《いた》く破られて逃れ還る。ここにおいて羅摩自ら総兵に将として、往き伐ち、また敗れて士卒|鏖殺《みなごろし》と来た。処へ二児の養育者ヴァルミキ仙来って、惻隠の情に堪えず、呪言を唱えてことごとく蘇生せしむ。
 羅摩王、宮に還って馬牲をやり直さんとし、隣国諸王と国内高徳の諸梵士を招待す。梵士らこの大礼を無事に遂げんには必ず私陀を喚《よ》べと勧め、羅摩、様々と異議したが、ついにこれを召還しよく扱うたので大牲全く済む。羅摩|化《ばけ》の皮を現わし、また妻の不貞を疑い、再び林中に追いやらんとするを諸王|宥《なだ》め止む。羅摩なお不承知で、私陀永く楞伽に拘留された間一度も敵王に穢された事なくば、須《すべから》く火に誓うて潔白を証すべしと言い張る。私陀固くその身に※[#「王+占」、第4水準2−80−66]《あやまち》なきを知るから、進んで身を火中に投ぜしも焼けず。他にも種々その潔白を証したが、なお全く夫王の嫉妬を除く能わず、私陀は「熱い目を私陀のも私陀で無駄になり」で、今は絶望の余り自分が生まれ出た大地に向い、わが節操かつて汚れし事なくんば、汝、我が足下に開いてわれを呑めと願うに応じ、土たちまち裂けて私陀を呑みおわった。羅摩これを見て大いに悔い、二子にその国を頒《わか》ち、恒河の辺《あたり》に隠栖《いんせい》修道して死んだというのが一伝で、他に色々と異伝がある。
 この譚に対して欧人間にも非難少なからず、われわれ日本人から攷《かんが》えても如何な儀も多いが、かかる事はむやみに自我に執して他を排すべきにあらず。たとえば欧州やインドの人は蟾蜍(ヒキガエル)を醜かつ大毒なる物として酷《ひど》く嫌う。しかるに吾輩を始め日本人中にこれを愛する者少なからず。アメリカインデアン人もまたしかり。モニエル・ウィリヤムスの『印度《ヒンズー》教篇』に、蛇は大抵の民族が甚《ひど》く忌むものながら、インド人はほとんど持って生まれたように心底からこれを敬愛称美するとあった。予かつて南ケンシントン美術館に傭《やと》われいし時、インドの美術品に貴婦が、遊逸談笑するに両|肱《ひじ》を挙げて、腋窩《えきか》を露《あら》わすところ多きを見て、インドの貴紳に向い、甚だ不体裁な事と語ると、その人わが見るところを以てすればこれほど端正な相好なしと至って真面目《まじめ》に答え、更に館に多く集めた日本の絵に、美女が少しく脛《はぎ》を露わせるを指ざし、非難の色を示した。されば太宰春台《だざいしゅんだい》が『通鑑綱目《つがんこうもく》』全篇を通じて朱子の気に叶《かの》うた人は一人もないといったごとく、第一儒者が道徳論の振り出しと定めた『春秋』や、『左伝』も、君父を弑《しい》したとか、兄妹密通したの、人の妻を奪うたのという事のみ多く、わが邦で賢母の模範のようにいう曾我の老母も、若い時京の人に相《あい》馴《な》れて京の小次郎を生んだとあるから私通でもしたらしく、袈裟御前《けさごぜん》が夫の身代りに死んだは潔《いさぎよ》けれど、死する事の一日後れてその身を盛遠《もりとお》に汚されたる事千載の遺恨との評がある。常磐《ときわ》が三子助命のために忍んで夫の仇に身を任せたは美談か知らぬが、寵|弛《ゆる》んで更に他の男に嫁し、子供多く設けたは愛憎が尽きる(『曾我物語』四の九、『源平盛衰記』一九、『昔語質屋庫《むかしがたりしちやのくら》』五の一一、『平治物語』牛若奥州|下向《げこう》の条)。しかしながらこれら諸女の譚は、道義に立脚した全くの戯作《げさく》でなく、それぞれかつて実在した事蹟に拠って敷衍《ふえん》したものなれば、要は時に臨んで人を感ぜしめた一言一行を称揚したまでで、各生涯を通じて完全|無瑕《むか》と保険付きでない。女権が極めて軽かった古代には、気が付きいても心に任せぬ事多く、何ともならぬ遭際のみ多かったのだ。いわんや風土習慣ことごとく異なったインドで、しかも西暦紀元前九百五十年より八十六万七千百二年の間にあったという遠い昔のラーマーヤナ事件を、今日他国人どもがかれこれ評するは野暮の至りだが、このような者を宗旨の経王として感涙を催すインド人も迂闊《うかつ》の至り。それを笑いながら、歴史専門家でなければ記憶せぬ善光寺大地震の頃生まれたカール・マルクスを新説として珍重がるも、阿呆の骨頂と岩猿《いわざる》を絵図《えず》と猴話に因《ちな》んで洒落《しゃれ》て置く。[#地から2字上げ](大正九年十一月、『太陽』二六ノ一三)

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 ラーマーヤナの譚をわが国で最も早く載せたは『宝物集《ほうぶつしゅう》』で治承の頃平康頼が筆すという。その略にいわく、昔釈迦如来|天竺《てんじく》の大国の王と生まれて坐《いま》しし時、隣国舅氏国飢渇してほとんど餓死に及べり。舅氏国の人民相議して我らいたずらに死なんより、隣の大国に向うて五穀を奪い取って命を活くべし、一日といえども存命せん事、庶幾《こいねが》うところなりとて、すでに、軍、立つを大国に聞き付けて万が一の勢なるが故に軽しめ嘲りて、手捕《てどり》にせんとするを聞きて、大臣公卿に宣《のたま》わく、合戦の時多くの人死せんとす。願わくば軍を止むべしと制したまいしかば、宣旨《せんじ》と申しながらこの事こそ力及び侍《はべ》らね[#「侍《はべ》らね」は底本では「待《はべ》らね」]、隣国進み襲うを闘わずば存命すべからずと申し侍《はべ》りければ、大王|窃《ひそ》かに后を呼んで、我れ国王として合戦を好まば多くの人死せんとす、我れ深山に籠《こも》りて仏法を修行すべし、汝は如何思いたもうと宣いければ、后今更に如何離れ奉らんとのたまいければ、ついに大王に具して深山に籠りたまいぬ。大国の軍、国王の失せたもう事に驚きて戦う事なくして小国に順《したが》いぬ。大王深山にして嶺の木の子を拾い、沢の岩菜を摘んで行いたまいけるほどに、一人の梵士出で来りて御伽《おとぎ》仕《つかまつ》るべしとて仕え奉る。大王嶺の木の子を拾いに坐《ましま》したる間に、この梵士后を盗んで失せぬ。大王還って見たもうに后の坐《いま》せざりければ山深く尋ね入りたもう。道に大なる鳥あり、二つの羽折って既に死門に入る。大鳥大王に申さく、日来《ひごろ》附き奉りたりつる梵士后を盗み奉りて逃れ侍りつるを、大王還りたもうまでと思いて防ぎ侍りつれども、梵士竜王の姿を現じてこの羽を蹴折《けお》りたりといいてついに死門に入りぬ。大王哀れと思《おぼ》して高嶺《たかね》に掘り埋めて、梵士は竜王にてありけるという事を知って、南方に向って坐しましけるほどに、深山の中に無量百千万の猿集りて罵りける処へ坐しぬ。猿猴大王を見付けて悦んでいわく、我ら年来領する山を隣国より討ち取らんとするなり。明日|午《うま》の時に軍定むべし、大王を以て大将とすべしという。大王思いがけぬところへ来りて悔《くや》しく思し召しながら、承りぬとて居たまいたりければ、弓矢をもて大王に奉れり。いうがごとく次の日の午の時ばかりに、池に藻|靡《なび》きて数万の兵襲い来る。大王猿猴の勧めに依って弓を引いて敵に向いたもうに、弓勢《ゆんぜい》人に勝《すぐ》れて臂《ひじ》背中《はいちゅう》に廻る。敵、大王の弓勢を見て箭《や》を放たざる先に遁《のが》れぬ。猿猴ら大いに悦び、この喜びにはいかなる事をか成さんずるといいければ、大王告げて曰く、我れ年来の后を竜王に盗み取られたり。故に竜宮城に向って南方へ行くなり、と宣いければ、猿猴ら申さく、我らが存命|偏《ひとえ》に大王の力なり、いかでか、その恩を思い知らざらん、速やかに送り奉るべしとて、数万の猿猴大王に随《したが》って往き、南海の辺《あたり》に到りければ、いたずらに日月を送るほどに、梵天帝釈大王の殺生を恐れて国を捨て、猿猴の恩を知って南海に向う事を憐れと思して、小猿に変じて数万の猿の中に雑《まざ》りていうよう、かくていつとなく竜宮を守るといえども叶うべきにあらず、猿一つして板一枚草一把を儲けて橋に渡し、筏《いかだ》に組みて竜宮城へ渡らんといいければ、小猿の僉議《せんぎ》に任せて、各板一枚草一把を構えて橋に渡し、筏に組みて自然に竜宮城に至れば、竜王、怒りをなして大なる声を起して光を放つほどに、猿猴霧に酔い雪に怖れて顛《たお》れ伏す。小猿雪山に登りて大薬王樹という樹の枝を伐って、帰り来りて酔い臥したる猿どもを撫《な》ずるに、たちまち酔《えい》醒《さ》め心|猛《たけ》くなって竜を責む。竜王光を放って鬩《せめ》ぎけるを大王矢を射出す。竜王大王の矢に中《あた》りて猿猴の中に落ちぬ。小竜ら戦わずして遁れ去りぬ。猿猴ら竜宮に責め入って后を取り返し七宝を奪い取って本の深山に帰る。
 さてかの舅氏国の王失せにければ、大国、小国、臣下等この王を忍びて迎え取りて、二箇国の王としてあり、細かには『六波羅蜜経』にぞ申しためると。
 熊楠いまだ『六波羅蜜経』を見及ばぬが、三国呉の時支那へ来た天竺三蔵法師康僧会が訳した『六度集経』五にラーマーヤナ譚あるを見出し、『考古学雑誌』四巻十二号へ載せた。当時の俗支那語で書いたらしくてちょっと読みにくい。大意は『宝物集』と同様ながら、板や草を橋筏とする代りに石を負うて海を杜《ふさ》ぎ猴軍が渡ったとあり。私陀
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