たものか。『日本及日本人』七二五号に、『談海』十二に山神の像を言いて「猿の劫《こう》をへたるが狒々《ひひ》という物になりたるが山神になる事といえり」、『松屋筆記』に『今昔物語』の美作《みまさか》の中参の神は猿とあるを弁じて、参は山の音で、中山の神は同国の一の神といえり、さて山神が猿なるより『好色十二男』に「かのえ申《さる》のごとき女房を持ち合す不仕合せ」とあるも、庚申の方へ持ち廻りたるなれど、面貌より女が山の神といわるる径路を案ずべし。必ずしも女房に限らざるは、『乱脛三本鑓《みだれはぎさんぼんやり》』に「下女を篠山に下し心に懸る山の神なく」とあると無署名で書いたは卓説だ。維新の際武名高く、その後長州に引隠して毎度東京へ出て今の山県《やまがた》公などを迷惑させた豪傑兼大飲家白井小助は、年不相応の若い妻を、居常《きょじょう》、猴と呼び付けたと、氏と懇交あった人に聞いたは誠か。予もその通りやって見ようとしばしば思えど、そこがそれ山の神が恐《こわ》くて差し控える。
 コンウェイはビナレスの猴堂に異類多数の猴が僧俗に供養さるるを観た最初の感想を述べて、この辺で行わるる軌儀は上世の猴が奉じた宗旨を伝承して人間が継続し居るものだが、その人間が逆にことごとく猴の祠堂を奪うてこの堂一つを残したらしいと言った。これは戯言ながら全く理《ことわり》なからず。『立世阿毘曇論《りゅうせあびどんろん》』二に、この世界に人の住む四大洲のほか、更に金翅鳥洲《こんじちょうしゅう》、牛洲、羊洲、椰子洲、宝洲、神洲、猴洲、象洲、女洲ありと説く。猴洲は猴ばかり住む処だ。アラビアの『千一夜譚』にも、わが邦の「猴蟹《さるかに》合戦」にも猴が島あり。『大清一統志』に福建の猴嶼《さるしま》あり。宋の※[#「广+龍」、第3水準1−94−86]元英《ほうげんえい》の『談藪』に、※[#「竹かんむり/均」、第3水準1−89−63]《いん》州の五峯に至りし人、〈馬上遥かに山中の草木|蠕々《ぜんぜん》とし動くを見る、疑いて地震と為す、馭者《ぎょしゃ》いう、満山皆猴なり、数《かず》千万を以て計る、行人独り過ぐれば、常に戯虐に遭う、毎《つね》に群呼跳浪して至り、頭目胸項手足に攀縁《はんえん》す、袞《こん》して毛毬を成す、兵刃ありといえども、また施す所なし、往々死を致す〉。千疋猴が人を蒸し殺す山だ。露人ニキチンの紀行にインドの猴に王あり、兵器持った猴どもに護られ林中に住む。人、猴を捕うれば余猴これを王に訴え、王すなわち猴兵を派し捜らしむ。猴兵市中に入りて家を壊《やぶ》り人を打つ、諸猴固有の語を話し、夥しく子を産む。その子両親に似ざれば官道に棄つるを、インド人拾い取りて諸の手工や踊りを教え夜中これを売る。昼売れば道を覚えてたちまち還《かえ》ればなり。アラビアの大旅行家イブン・バツタも、インドの猴王を、四猴、棒を執りて侍衛すと述べた。これらの記事中に無下《むげ》の蛮民を猴と混同したもあるべきか(タイラー『原始人文篇』一巻十一章)。
 昔人多からざりし世に猴ばかり住んだ地方ありしは疑いなく、さてタイラーも言ったごとく、未開時代には猴を豪い者とし、人を詰まらぬ者とし過ぐる事多かったに付けて、かく他の諸動物に勝《すぐ》れて多勢で威を振うを見て、その地の所有権は猴にあるごとく認めたのだ。
 松を太夫とし、雨を獄に下し、狐に訓示を発し、兎に制条を出した東洋人と均《ひと》しく、文化に誇る欧州でも、古くデモクリトスは重罪を犯した動物の死刑を主張し、ヴァロはローマ人労働の棒組たる牛を殺すを殺人罪と攷《かんが》えたのみならず、中世まで全く動物を人と同位と見たので、獣畜を法廷で宣言した例多い(『ルヴェー・シアンチフィク』三輯三号、ラカッサニュの「動物罪科論」)、されば本邦でも人文追々発達して、諸動植が占居蕃殖せる地面を人の物とし神の用に供するに及んでも、多くのキリスト教徒が異教の地に入りてせしごとき全滅を行わず、なるべく無害な物を保存して神木神獣とし、これを敬愛して神の使い者としたのは、無類の上出来で、奈良、宮島の猴鹿から、鳥海山の片目のカジカ魚まで、欧人に先だって博愛飛渚に及んだ邦人固有の美徳ありし証ともなれば、邦家の成立由来するところ一朝夕の事にあらざるを明らむべき不成文の史籍ともなったのだ。伊豆の三島の神は鰻を使者とし神池の辺で手を拍《う》てば無数の鰻浮き出たという。かかる事西洋になかったものか、徳川時代の欧人の書に伝聞のまましばしば書きいる。しかるに今は神池空しく涸《か》れて鰻跡を絶った由。去冬魚類専門の田中茂穂氏来訪された時、氏の話に、魚類の心理学は今に端緒すら捉え得ずと。件《くだん》の鰻ごときは実にその好材料なりしに今やすなわちなし。知らぬが仏と言うものの、かかる事は何卒為政者の気を付けられたい事だ。
 猴を神使とせる例、『若狭《わかさ》郡県志』に上中郡賀茂村の賀茂大明神降臨した時白猿|供奉《ぐぶ》す、その指した所に社を立てた。飛騨宕井戸村山王宮は田畑の神らしい。毎年越中魚津村山王より一両度常のより大きく薄白毛の猴舟津町藤橋を渡りてここへ使に参る(『高原旧事』)、江州《ごうしゅう》伊香《いか》郡坂口村の菅山寺は昔猴が案内して勅使に示した霊地の由(『近江輿地誌略』九〇)、下野《しもつけ》より会津方面にかけて広く行わるる口碑に、猿王山姫と交わり、京より奥羽に至り、勇者磐次磐三郎を生む、猿王二荒神を助け赤城神を攻めて勝ち、その賞に狩の権を得、山を司ると(『郷土研究』二の一、柳田氏の説)。これはハヌマンの譚に似居る。厳島の神獣として猴多くいたがその屍を見た者なきに何処《どこ》へ行ったか今は一疋も見えぬ(同四の二、横田氏説)というは、先述ハヌマン猴は屍を隠すてふインド説に近い。かつて其諺《きげん》翁の『滑稽雑談《こっけいぞうだん》』三に猿の口開き、こは安芸《あき》宮島にある祭なり。この島猴もっとも多し、毎年二月十一日申の日を限り、同国島の八幡の社司七日の間|祓《はらい》を行い、申の日に至りてこの島に来り、猿の口開の神事を行う。この日より後この島の猴声を発すといえり。また十一月上申の日|件《くだん》の社司祓神事を行う事二月のごとし、猿の口止《くちどめ》の神事というなり。この後猴声を入るるなりとあるを読んで、何とか実地研究と志しいたところ、右の報告を見てお生憎《あいにく》様と知った。『厳神鈔』に山王権現第一の使者に猿、第二の使者鹿なり。春日大明神第一の使者は鹿、第二の使者は猿なり。日吉《ひえ》にも、インド、セイロン同然猴は屍を匿《かく》す話行われ、唐崎《からさき》まで通ずる猿塚なる穴あり、老い果てた猿はこの穴に入りて出ざる由。猿果てたる姿見た者なし、当社の使者奇妙の働き〈古今|勝《あ》げて計《かぞ》うべからず〉という(『日吉社神道秘密記』)。『厳神鈔』に、初め小比叡峰へ山王三座来りしが、大宮は他所へ移り、二の宮は元よりこの山の地主故独り住まる。その時猿形の山神集まりて種々の遊びをして慰めた。これを猿楽の一の縁起と申す。『日吉社神道秘密記』に、〈大行事権現、僧形猿面、毘沙門弥行事、猿行事これに同じ、猿田彦大王、天上第一の智禅〉。『厳神鈔』に大行事権現は山王の惣《そう》後見たり、一切の行事をなすと出《い》づ。すべて日吉に二十一社ありて仏神の混合甚だしく、記録に牽強多くて事歴の真相知れがたきも、大体を稽《かんが》うるに、伝教大師この社を延暦寺に結び付けた遥か以前に、二の宮この山の地主と斎《いつ》かれた。そのまた前に猴をこの山の主として敬いいたのがこの山の原始地主で、上に引いたコンウェイの言に倣《なろ》うていえば、拝猴教が二の宮宗に、二の宮宗が一層新米の両部神道に併《あわ》され、最旧教の本尊たりし猴神は記紀の猿田彦と同一視され、大行事権現として二十一社の中班に例したは以前に比して大いに失意なるべきも、その一党の猴どもは日吉の神使として栄え、大行事猴神また山王の総後見として万事世話するの地位を占め得たるは、よく天命の帰する所を知りて身を保ったとも一族を安んじたともいうべく、また以てわが邦諸教|和雍寛洪《わようかんこう》の風に富めるを知るべし。『厳神鈔』に「日吉と申すは七日天にて御す故なり、日吉の葵《あおい》、加茂の桂《かつら》と申す事も、葵は日の精霊故に葵を以て御飾りとし、加茂は月天にて御す故に桂を以て御飾りとす」など、日吉の名義定説なきも、何か日の崇拝に関係ある文字とは判る。バッジいわく、古エジプト人の『死者の書』に六、七の狗頭猴|旭《あさひ》に向い手を挙げて呼ぶ体《てい》を画いたは暁の精を表わし、日が地平より上りおわればこの猴になると附記した。けだしアフリカの林中に日出前|毎《つね》にこの猴喧嘩するを暁の精が旭日《きょくじつ》を歓迎|頌讃《しょうさん》すと心得たからだと。これすこぶる支那で烏を日精とするに似る。日吉山王が猴を使者とするにこの辺の意義もありなん。夜明けに逸早《いちはや》く起きて叫び噪《さわ》ぐは日本の猴もしかり。
『和漢三才図会』に、猴、触穢《しょくえ》を忌む。血を見ればすなわち愁《うれ》うとあるが、糞をやり散らすので誠に閉口だ。果して触穢を忌むにや。次に〈念珠を見るを悪《にく》む。これ生を喜び死を悪むの意、因って嘉儀の物と為しこれを弄ぶ〉とある。吾輩毎度農民に聞くところは例のさるまさるとて蓄殖の意に取るらしく、熊野では毎初春猴舞わしが巡り来て牛舎前でこれを舞わす。また猴の手をその戸に懸け埋めて牛息災なりという。エルウォーシーの『邪視編』に諸国で手の形を画いて邪視を防ぐ論あり。今もこの辺で元三大師の手印などを門上に懸くる。されば猴を嘉儀の物とするに雑多の理由あるべきも邪視を避くるのがその随一だろう。ここには猴に関してのみ略説しよう。その詳説は『東京人類学雑誌』二七八号拙文「出口君の小児と魔除を読む」を見られよ。
『書紀』天孫降下の条に先駆者還りて曰く、〈一の神有りて、天八達之衢《あまのやちまた》に居り、その鼻長さ七咫《ななあた》脊の長さ七尺《ななさか》云々、また口尻《くちわき》明り耀《て》れり、眼は八咫鏡《やたのかがみ》の如くして、※[#「赤+色」、124−3]然《てりかかやけること》赤酸醤《あかかがち》に似《の》れり、すなわち従《みとも》の神を遣して往きて問わしむ、時に八十万《やそよろず》の神あり、皆|目《ま》勝ちて相問うことを得ず、天鈿女《あまのうずめ》すなわちその胸乳《むなぢ》を露《あらわ》にかきいでて、裳帯《もひも》を臍の下に抑《おした》れて、咲※[#「口+據のつくり」、第3水準1−15−24]《あざわら》いて向きて立つ〉、その名を問うて猿田彦大神なるを知り、〈鈿女|復《また》問いて曰く、汝《いまし》や将《はた》我に先だちて行かむ、将《はた》我や汝に先だちて行かむ、対《こた》えて曰く吾先だちて啓《みちひら》き行かむ云々、因りて曰く我を発顕《あらわ》しつるは汝なり、故《かれ》汝我を送りて到りませ、と〉とて、伊勢の狭長田《さなだ》五十鈴川上に送られ行くとあるは、猿田彦の邪視八十万神の眼の堪え能わざるところなりしを、天鈿女醜を露《あらわ》したので猿田彦そこを見詰めて、眼毒が弱り和らぎ、鈿女打ち勝ちて彼をして皇孫の一行を避けて遠地に自竄《じざん》せしめたのだ。インドでハヌマン猴神よく邪視を防ぐとて祭る事も、青面金剛崇拝は幾分ハヌマン崇拝より出た事も既に述べた。それが本邦に渡来してあたかも邪視もっとも強力なりし猿田彦崇拝と合して昨今の庚申崇拝が出来たので、毒よく毒を制する理窟から、以前より道祖神と祀られて邪視防禦に効あった猿田彦が、庚申と完成された上は一層強力の眼毒もて悪人凶魅どもの眼毒を打ち破るのだ。庚申堂に捧ぐる三角の袋|括《くく》り猿など、パンジャブ辺でも邪視を防ぐの具で、一つは庚申の避邪力を増さんため、一つは参詣者へ庚申の眼毒が強く中《あた》らぬべき備えと知らる。またインドや欧州その他に人畜が陰陽の相を露せる像を立て、邪鬼凶人の邪視を防ぐ例すこぶる多く、本邦にも少なからず、就中《なかんず
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