く》猴が根を露せるもの多し。その諸例は今年九月印刷出口君の『日本生殖器崇拝略説』に詳載さる。予出口君の許しを得て珍しき猴の石像の写真をここに掲げんとせしも再考の末見合せ、代りに掲ぐる第十一図は余が南ケンシントン博物館で写真を模したもので、多くのインド人に尋ねしも訳分らず、しかし道祖神の一態たる和合神(『天野政徳《あまのまさのり》随筆』一に図あり)のインド製に相違なかろう。
[#「第11図 マハエヴリプラームにある二猴の彫像」のキャプション付きの図(fig2539_11.png)入る]
猴を馬厩《うまや》に維《つな》ぐ事については柳田君の『山島民譚集』に詳説あり、重複を厭《いと》いここにはかの書に見えぬ事のみなるべく出そう。『広益俗説弁』その他に、この事、『稗海《はいかい》』に、晋の趙固の馬、病みしを郭璞《かくはく》の勧めにより猴と馴れしめて癒えたとあるに基づくといえど、『梅村載筆』には猿を厩に維ぐは馬によしという事、『周礼註疏』にありと記す。現に座右にあれどちょっと多冊でその文を見出さず。註にあらば晋より前、後漢の時既にこの説あったはずだが、疏にあらば晋より後のはずでいずれとも今分らぬ。しかし『淵鑑類函』四三二、後漢王延寿王孫賦、既に酔い眠った猴を縛り帰って庭厩に繋《つな》ぐとあれば、郭璞に始まったとは大啌《おおうそ》だ。それから、伊勢貞丈《いせさだたけ》、武士、厩の神を知りたる人少なしとて、『諸社根元記』と『扶桑略記』より延喜天徳頃|左右馬寮《さうまりょう》に坐せし、生馬の神、保馬の神を挙げ、『書紀』の保食神《うけもちのかみ》牛馬を生じたるよりこの二神号を帯びたのだろといった(『あふひづくり』上)、この二神は猴でなかろう。『塵添※[#「土へん+蓋」、第3水準1−15−65]嚢抄《じんてんあいのうしょう》』四、猿を馬の守りとて馬屋に掛くるは如何、猿を山父、馬を山子といえば、父子の義を以て守りとするか、ただし馬櫪神《ばれきしん》とて厩神|在《いま》す、両足下に猿と鶺鴒《せきれい》とを蹈ませて二手に剣を持たしめたり、宋朝にはこれを馬の守りとす、この神の踏ませるものなれば猿ばかりをも用ゆるにや。橘守国《たちばなもりくに》の『写宝袋《しゃほうぶくろ》』にその像を出せるが『※[#「土へん+蓋」、第3水準1−15−65]嚢抄』の所記と違う。柳田氏は猿を添うるは判っているが、鶺鴒の意味分らず、あるいは馬神と水神との相互関係を推測せしむる料にあらずやといわれたが、川柳に「鶺鴒も一度教へて呆れ果て」、どど一《いつ》にも「神に教えた鶺鴒よりもおしの番《つが》いが羨まし」ナント詠んだごとく、この鳥特異の動作を示して二尊に高尚なる学課を授け参らせたに因って、「逢ふ事を、稲負《いなおわ》せ鳥の教へずば、人を恋に惑はましやは」それを聞き伝えたものか、嬌女神ヴィナスの異態てふアマトンテの半男女神はこの鳥を使者とし、その信徒に媚薬として珍重された。今村鞆君|元山府尹《げんざんふいん》たり、近く『増補朝鮮風俗集』を恵贈さる。内に言えるは鮮人の思想貧弱にして恋愛文学なく、その男女の事を叙するや「これと通ず」「これを御す」と卑野露骨にして憚《はばか》らずと。それについての鄙見《ひけん》は他日に譲り差し当り述ぶるは、『淮南子《えなんじ》』に〈景陽酒に淫し、髪を被りて婦人を御し、諸侯を威服す〉。その他古文に〈婦女を御す〉というが多い。これは鹿爪《しかつめ》らしい六芸の礼楽|射御《しゃぎょ》の御とは別にしてしかも同源の語で、腰を動かすてふ本義だ。所詮《しょせん》鶺鴒の絶えず尾を振るごとくせば、御馬の術も上達すてふ徴象で、さてこそ馬の災を除く猴とこの鳥を踏んで、馬櫪神よく馬を養いよく馬を御すと示したのだ。何と畏《おそ》れ入ったろう。また按ずるにホワイトの『セルボルン博物志』に牛が沢中に草食う際、鶺鴒その身辺を飛び廻り、鼻に接し腹下を潜《くぐ》って牛に著いた蠅を食う。天の経済に長ぜるかかる縁遠き二物をして各々自利利他せしむと書いて、利はよく他人同士を和せしむというたは、義は利の和なりてふ支那の文句にも合えば、ちと危険思想らしいがクロポトキンの『互助論』にもありそうな。惟《おも》うに鶺鴒は支那で馬の害虫を除く功あるのでなかろうか。張華の『博物志』三に〈蜀山の南高山上に物あり、※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴のごとく長《たけ》七尺、能く人行健走す、名づけて猴※[#「けものへん+矍」、127−10]《こうかく》という、一名馬化、同じく道を行く婦人に、好き者あればすなわちこれを盗みて以て去る〉、『奥羽観跡聞老志』四に、駒岳の神は、昔馬首獣の者生まれ、父母怖れて棄つると猴が葛《くず》の葉を食わせて育てた、死後この神と成ったと出《い》づ。『マハバーラタ』にはハリー神女が馬と猴の母だという。こうなるとどうも猴と馬が近親らしい。『虎※[#「金+今」、第3水準1−93−5]経《こけんけい》』に猴を厩に畜《か》えば馬のために悪を避け、疥癬を去るとある。悪を避けは西洋でいう邪視を避くる事でこれが一番確説らしい。アラビア人など駿馬が悪鬼や人の羨み見る眼毒に中《あて》らるるを恐るる事甚だしく、種々の物を佩《お》びしめてこれを避く。和漢とも本《もと》邪視を避くるため猴を厩に置き、馬を睨《にら》むものの眼毒を種々走り廻る猿の方へ転じて力抜けせしめる企《たくら》みだったのだ。また疥癬を去るとあるより推すに、馬の毛に付いた虫や卵を猴が取って馬を安んずるのかも知れぬ。烟管《キセル》を掃除したり小児の頭髪を探ったりよくする。『新増|犬筑波《いぬつくば》集』に「秘蔵の花の枝をこそ折れ」「引き寄せてつぶり春風我息子」「虱《しらみ》見るまねするは壬生猿《みぶざる》」。壬生猿何の義か知らぬが、猴同士虱を捜り合うは毎度見及ぶ。しかるに知人アッケルマンの『ポピュラー・ファラシース』にいわく、ロンドン動物園書記ミッチェル博士がかの園の案内記に書いたは、世人一汎に想うと反対に、猴が蚤《のみ》に咋《く》わるる事極めて稀《まれ》だ。そは猴ども互いにしばしば毛を探り合うからだが、それにしても猴が毛を探って何か取り食うは多くは蚤でなくて、時々皮膚の細孔から出る鹹《から》き排出物の細塊であると。ただし虱の事を書いていないは物足らぬ。この話で思い出したは享保二十年板|其碩《きせき》の『渡世身持談義』五、有徳上人の語に「しからばあまねく情知りの太夫と名を顕《あら》わさんがために身上《みあが》りしての間夫狂《まぶぐる》いとや、さもあらば親方も遣《や》り手も商い事の方便と合点して、強《あなが》ちに間夫をせき客の吟味はせまじき事なるに、様々の折檻《せっかん》を加うるはこれいかに、その上三ヶ津を始め諸国の色里に深間《ふかま》の男と廓《くるわ》を去り、また浮名立ててもその間夫の事思い切らぬ故に、年季の中にまた遠国の色里《いろざと》へ売りてやられ、あるいは廓より茶屋|風呂屋《ふろや》の猿と変じて垢《あか》を掻《か》いて名を流す女郎あり、これ皆町の息子親の呼んで当てがう女房を嫌い、傾城《けいせい》に泥《なず》みて勘当受け、跡職《あとしき》を得取らずして紙子《かみこ》一重の境界となる類《たぐ》い、我身知らずの性悪《しょうわる》という者ならずや」、風呂屋の猿とは『嬉遊笑覧』九に、『一代女』五、一夜を銀六匁にて呼子鳥、これ伝受女なり、覚束《おぼつか》なくて尋ねけるに、風呂者を猿というなるべし。暮方より人に呼ばれける(風呂屋女に仇名《あだな》を付けて猿というは垢をかくという意となり)とあり。正徳元年板|其碩《きせき》の『傾城禁短気《けいせいきんたんき》』に「この津の橋々に隠れなき名題の呂州(風呂屋女を指す)猿女上人」、一向宗の顕如《けんにょ》に猿をいいかけたり。元禄十三年板『御前義経記』五にも「以前の異名は湯屋猿と申し煩悩の垢をすりたる身」とあり。それから『信長記《しんちょうき》』八「美濃近江の境に山中という処、道傍にいつも変らずいる乞食あり。信長その故を問うに在処の者いう、昔当所山中の処にて常磐御前を殺せし者の子孫、代々|頑《かた》わ者と生まれて乞食す、山中の猿とはこの者と、六月二十六日|上洛《じょうらく》取り紛れ半ば、かの者の事思い出で、木綿《もめん》二十反手ずから取り出し猿に下され、この半分にて処の者隣家に小屋をさし、飢死せざるように情を掛け、隣郷の者ども、麦、出候わば麦を一度、秋後には米を一度、一年に二度ずつ取らすべしと」。これは代々不具な賤民を貌《かお》の醜きより猿と名づけたと見える。
終りに述べ置くは、インドとシャムで象厩に猴を畜《か》えば、象を息災にすと信ずる由書いたが、近日一七七一年パリ板ツルパンの『暹羅《シャム》史』に、シャムの象厩に猴を飼い、邪気が厩を襲えば猴これを引き受け象害を免がる。象は天禀《てんびん》猴を愛するとあるを見出した。邪気とは只今学者どものいう邪視で、猴が避雷針様に邪視力を導き去るから、象、難を免るるのだ。前述熊野の牛舎の例もあり、猴を繋ぐは馬厩に限らぬと判る。さて、前年予植物同士相好き嫌いする説をロンドンで出し大いに注意を惹《ひ》いたが、その後|彼方《かなた》よりの来信を見るに、綿羊は常に鹿の蕃殖を妨げ、山羊を牛舎に飼えば、牛、常に息災で肥え太る由一汎に信ぜらるという。ロメーンズの『動物智慧論』にも※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1−94−55]《わに》が太《いた》く猫を愛した例を出す。惟うに害虫駆除とか邪視を避くるとかのほかに、実際、象、馬、牛は天禀猴を好むのかも知れぬ。この事深く心理学者や農学者、獣医諸君の研究を俟《ま》つ次第である。[#地から2字上げ](大正九年十二月、『太陽』二六ノ一四)
底本:「十二支考(下)」岩波文庫、岩波書店
1994(平成6)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「南方熊楠全集 第一・二巻」乾元社
1951(昭和26)年
初出:概言1「太陽 二六ノ一」
1920(大正9)年1月
概言2「太陽 二六ノ二」
1920(大正9)年2月
性質「太陽 二六ノ五」
1920(大正9)年5月
民俗1「太陽 二六ノ一三」
1920(大正9)年11月
民俗2「太陽 二六ノ一四」
1920(大正9)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:小林繁雄
校正:門田裕志、仙酔ゑびす
2009年4月24日作成
2009年11月17日修正
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