物を豊穣にする神としたので、前に載せた越前の刀根てふ処で、今に猴神に室女を牲した遺式を行いながら毎年田畑のために猴狩りを催すは、崇めるのか悪《にく》むのか辻褄《つじつま》の別らぬようだが、昔猴を怕れ敬うた事も分り、年々殺獲する猴の弔いに室女を捧げてその霊を慰める義理立てにも当るようだ。盗賊|禦《ふせ》ぎに許されて設けた僧兵が、鴨川の水、双六《すごろく》の賽《さい》ほど法皇を悩ませたり、貿易のために立てた商会がインドを英国へ取ってしまう大機関となったり、とかく世間の事物は創立当時とその意味が変る物と見える。
『酉陽雑俎』巻十一に道士|郭采真《かくさいしん》言う、人の影の数九に至ると。この書の著者|段成式《だんせいしき》かつて試みて六、七に至りしがそれ已外《いがい》は乱れて弁ぜず、郭いわくようやく炬を益せばすなわち別つべしとありて、九影の神名を書いた物あったが虫に食われて紙面全からず皆まで分らぬと出《い》づ。予五、六歳の時|行燈《あんどん》を多く点《とも》し自分の影が行燈の数ほど増すを見て至って分り切った事と思うたが、博識ほとんど張華の流かと言われた段氏がこれほどの事を不思議がったは馬鹿げて居る。一七八七年七月九日ロンドンの街上を行く一紳士一貴婦にエリオット博士ちゅう学者が小銃を放ち、いずれも傷つかなんだがその婦人の衣は破れ、二人とも大いに愕《おどろ》いたので博士は入牢した。その時博士の諸友これを発狂の所作として申告した内に癲狂院《てんきょういん》を司るシムモンス博士あり。当時高名の精神病学者でもっとも世に重んぜられた人だが、自分はエリオットと親交十余年深くその狂人たるを知ると言ったので、その確証を述べよと問われて判官に答えたは、この頃エリオットが学士院へ提出するとて草した天体の光に関する論説を自分に贈った。これ確かに彼が狂人たる十分の証拠だという事で法廷で読み上げた内に「日は通常星学家が説くごとき火の塊でなく、実は日の上に濃くあまねく行き渡った光気(オーロラ)ありて日光を発し、その下なる太陽面の住民に十分光りを与え得るが、随分遠距離にあれば住民の迷惑にもならぬ」という一節こそ、殊に気違いの証拠だと述べた。判官は異常な学説を狂人の所作といえば精通真面目の星学家で狂人にしてしまわるる者多からんとて受け付けなんだ。しかし法律上の沙汰でエリオットが同時に射た二銃とも丸《たま》を込みいた確証なしとの一点より無罪と宣告された。ところがこの博士拘引後絶食十三日で死んでしまったは、昨今評判のコルクの市長の足元へも寄れませぬ。ロバート・チャンバースいわく、この事件を新聞紙月並みの法廷傍聴録として看過しがたきは、当時エリオットが懐《いだ》いた理想こそ実に現今(一八六四年)第一流の星学諸家が主張する所なれ、さればこれに拠って吾人は世にあまねく知られざる一事を知る。すなわち当世の狂が後代の智となる事もあれば、只今賢いと思わるる多くが、百年立てば阿呆の部に入れらるる事も多かろうと。これ誠に至言で、チャンバースが現今第一流の星学諸家が主張する所とは誰々なるを詳らかにせぬが、最近、日の上に濃くあまねく行き渡った光気より日光を発し、太陽面の住民に十分光を与えながら迷惑は掛けぬなど信ずる学者もないようだから、わずかに六十年足らぬ間に当時の碩学が今日の阿呆と見えるようになったのだ。まだそれよりも著しいは前年、現時為政者たる人が浅薄な理想を実現せんとて神社|合祀《ごうし》を励行し、只今も在職する有象無象大小の地方官公吏が斜二無二迎合して姦をなし、国家の精髄たる歴史をも民情をも構わず、神社旧跡を滅却し神林を濫伐して売り飛ばせてテラを取り、甚だしきは往古至尊上法皇が奉幣し、国司地方官が敬礼した諸社を破壊し神殿を路傍に棄て晒《さら》した。熊楠諸国を遍歴して深く一|塵《じん》一|屑《せつ》をも破壊するてふ事の甚だ一国一個人の気質品性を損するを知り、昼夜奔走苦労してその筋へ進言し、議会でも弁じもらい、ついに囹圄《れいご》に執《とら》わるるに至って悔いず。しかるにその言少しも用いられず。不祥至極の事件の関係者が合祀励行の最も甚だしかった地方から出た。神社合祀が容易ならぬ成り行きを来すべきは当時熊楠が繰り返し予言したところなるに、その讖《しん》ついに成りしはわれも人もことごとく悲しむべきである。鄭《てい》に賢人ありて鄭国滅びたるは賢人の言を聞きながら少しも用いなんだからと、室鳩巣《むろきゅうそう》が言ったも思い当る。それにサアどうだ。有司が前陣に立って勧めた薬が利《き》き廻って今日ドサクサするに及び、ヤレ汽車賃を割引するから参宮に出掛けよとか、ソラ国費を以て某々の社を廓大しようとか大騒ぎに及ぶは既に手後れの至りで、汝の罪汝に報う「世の中の、うさには神もなき物を、心のどけく何祈るらん」と諸神が平家を笑うだろう。これを以てこれを見るに、当身のその本人が十年前に狂と見た熊楠の叡智に今は驚き居るに相違ない。魏徴《ぎちょう》、太宗に言いしは、われをして良臣たらしめよ、忠臣たらしむるなかれと。この上仰ぎ願わくば為政者、よっぽど細心してまた熊楠をして先見の明に誇らしむるなからん事を。マアざっとこんな世間だから、段成式が人に九影ありと聞いて感心して『雑俎』に書き留めたのも、諸方の民が人に数魂ありと信ずるのもむやみに笑う訳に行かず。これを笑うたのを他日に及んで笑わるるかも知れぬという訳は、変態心理学の書にしばしば見る二重人格また多数人格という例少なからず。甚だしきは一人の脳に別人ごとく反対した人格を具し、甲格と乙格と相嫌い悪《にく》む事|寇讎《こうしゅう》のごときもある。されば猿田彦が死に様に現じた動作の相異なるより察して、その時々の心念を平生の魂と別に、それぞれ名を立て神と視《み》た『古事記』の記述も、アルタイ人が人ごとに数魂ありて各特有の性質、働き、存限ありと信ずるも理に合えりともいうべし。それと等しく一つの神仏菩薩に数の性能を具するよりその性能を別ちて更に個々の神仏等を立てた事多きは、ギリシャ、ローマの神誌や仏経を読む者の熟知するところで、同じ猴ながら見立てように随って種々の猴神が建立された。猿田彦がインドの青面金剛、支那の三尸と結合されて半神半仏の庚申と崇められた概略は出口氏の『日本生殖器崇拝略説』に出で、この稿にも次第したればこの上詳説せずとして、衢《ちまた》や、旅行や、盗難を司る庚申のほかに、田畑、作物を司る猴神ある事前述のごとく、そのほかまた猴を山の神とせるあり。
玄奘三蔵の『大唐西域記』十に、駄那羯礫迦国の城の東西に東山西山てふ伽藍あり。この国の先王がいかめしく立てたので霊神警衛し聖賢遊息した。仏滅より千年のうち毎歳千の凡夫僧ありてこの寺に籠《こも》り、終りて皆羅漢果を証し、神通力もて空を凌《しの》いで去った。千年の後は凡聖同居す。百余年この方《かた》は坊主一疋もいなくなり、山神形を易《か》えあるいは豺狼《さいろう》あるいは※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]※[#「けものへん+鴪のへん」、115−15]《えんゆう》となりて行人を驚恐せしむ、故を以て、空荒《くうこう》闃《げき》として僧衆なしとある。既にいったごとく、※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]は手の長い猴《さる》で、※[#「けものへん+鴪のへん」、116−1]は神楽鼻《かぐらばな》で鼻穴が上に向いた尾長猴じゃ。前年予田辺の一旅館で山の神がオコゼ魚に惚れ、獺《かわうそ》を媒《なかだち》として文通するを、かねてかの魚を慕いいた蛸入道《たこにゅうどう》安からず思い、烏賊《いか》や鰕《えび》を率いて襲い奪わんとし、オコゼ怖れて山奥に逃げ行き山の神に具して妻となる物語絵を見出し、『東京人類学雑誌』二九九号に載せ、また絵師に摸させ自分|詞書《ことばがき》を写して米賓スウィングル氏に贈りしに、ス氏木村仙秀氏に表具してもらい、巻物となし今も珍蔵する由。それには山神を狼面に画きあった。今も狼を山神として専ら狩猟を司るとする処が熊野にある。ところが同じ熊野でも安堵峰辺で自ら聞いたは、山神女形で、山祭りの日一山に生えた樹木を算うるになるべく木の多きよう一品ごとに異名を重ね唱え「赤木にサルタに猴滑り」(いずれもヒメシャラ)「抹香《まっこう》、コウノキ、コウサカキ」(皆シキミの事)など読む。樵夫当日その内に読み込まるるを怕れて山に入らず、また甚だ男子が樹陰に自涜《じとく》するを好むと。佐々木繁君説に、山神、海神と各その持ち物の多きに誇る時、山神たちまち(オウチ?)にセンダン、ヤマンガと数え、相手のひるむを見て得意中、海神突然オクゼと呼びたるにより山神負けたとあるを見て、この話の海内《かいだい》に広く行き渡れるを知った。十分判らぬがオクゼは置くぞえで、海神いざこれから自分の持ち物を算盤に置くぞえと言いしを、山神オコゼ魚が自分の本名を知られたと合点して、敗亡したらしい。諸国に神も人も自分の本名を秘した例多い(『郷土研究』一巻七号)。いわゆる山祭りは陰暦十一月初めの申の日行う。けだしこの山神は専ら森林を司り、その祭日には自分の顔色と名に因んで、赤木に猿たに猿滑りと、一種の木を三様に懸値《かけね》して国勢調査すと伝えたのだ。
牡猴が一たび自涜を知れば不断これを行い衰死に及ぶは多く人の知るところで、一八八六年板ドシャンプルの『医学百科辞彙』二編十四巻にも、犬や熊もすれど、猴殊に自涜する例多しと記し、医書にしばしば動物園の猴類の部を童男女に観するを戒めある。予壮時諸方のサーカスに随い行きし時、黒人などがほめき盛りの牝牡猴に種々|猥《みだ》りな事をして示すと、あるいは喜んで注視しあるいは妬《ねた》んで騒ぐを毎度|睹《み》た。『十誦律』一に〈仏舎衛国にあり、爾時《そのとき》※[#「りっしんべん+喬」、第3水準1−84−61]薩羅《きょうさら》国に一比丘あり、独り林中に住す、雌※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴あり常にしばしばこの比丘の所に来往す、比丘すなわち飲食を与えてこれを誘う、※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴心軟し、すなわち共に婬を行う、この比丘多く知識あり、来りて相問訊して一面にありて坐す、時に※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴来りて婬を行わんと欲し、一々諸比丘の面を看る、次に愛するところの比丘の前に到り、住《とど》まりてその面を諦視し、時にこの比丘心恥じ※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴を視ず、※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴|尋《つ》いで瞋り、その耳鼻を攫し、傷破してすなわち去る、この比丘波羅夷を得、まさに共に住すべからず〉、巻五五に、仏|毘舎離《びしゃり》にあった時、一比丘毎度余食を雌猴に与うると〈ついにすなわち親近し、東西を随逐し、乃至手捉して去らず、時に比丘すなわち共に不浄を行う、時に衆多の比丘房舎の臥具を案行し、次にかの林中に至り、かの※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴来りて諸比丘の前にありて住し尾を挙げて相似を現わす、諸比丘、かくのごとき念を作す、この雌※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴今我らの前にありて、相を現ずることかくのごとし、はた余比丘のこの※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴を犯すあるなしか、すなわち隠れて屏処にありてこれを伺う、時に乞食比丘食を得て林中に還り、食しおわりて持して※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴に与う、※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴食しおわりて共に不浄を行う、かの諸比丘観見して、すなわち語《い》いていわく長老、仏比丘を制して不浄を行うを得ざるにあらずや、彼答えて言う、仏人の女を制して、畜生を制せず、時に諸比丘仏の所に往き云々〉、仏これを波羅夷罪《はらいざい》と断じた。この通り牝猴時として慾火|熾《さか》んに人前に醜を露わす事もあるべく、それらの事より山神女性で男子の自涜を好むといい出し
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