れぬ波間よりてふ句で、もと海に棲むとしたと知れる。この謡《うたい》に猩々が霊泉を酒肆《しゅし》の孝子に授けた由を作ってより、猩々は日本で無性に目出たがられ、桜井秀君は『蔭涼軒日録《いんりょうけんにちろく》』に、延徳三年泉堺の富家へ猩々に化けて入り込み財宝を取り尽した夜盗の記事を見出された。かかる詐欺が行わるべしとは今の人に受け取れぬが、『義残後覚《ぎざんこうかく》』七、太郎次てふ大力の男が鬼面を冒《かぶ》り、鳥羽の作り道で行客を脅かし追剥《おいはぎ》するを、松重岩之丞が斫《き》り露《あら》わす条、『石田軍記』三、加賀野江弥八が平らげた伊吹の山賊鬼装して近郷を却《おびや》かした話などを参ずるに、迷信強い世にはあり得べき事だ。若狭《わかさ》に猩々洞あり。能登《のと》の雲津村数千軒の津なりしに、猩々上陸遊行するを殺した報いの津浪で全滅したとか(『若狭郡県志』二、『能登名跡志』坤巻)、その近村とどの宮は海よりトド上る故、トド浜とて除きあり、渡唐の言い謬《あやま》りかとある。トドは海狗の一種で、海狗が人に化ける譚北欧に多い(ケートレーの『精魅誌』)。惟《おも》うに北陸の猩々は海狗を誤認したのだろ
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