》※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴池を模せしと、池の西北の方の松井の坊に弘法《こうぼう》作てふ猴の像あり。毘舎利《びしゃり》国※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴池の西の諸猴如来の鉢を持って樹に登り蜜を採り、池の南の群猿その蜜を仏に奉ると『西域記』を引き居るが、仏はなかなかの甘口で猴はそれを呑み込んで人間に転生したさに毎々《つねづね》蜜を舐《ねぶ》らせたと見える。また『賢愚因縁経』十二に、舎衛《しゃえ》国の婆羅門《ばらもん》師質が子の有無を問うと六師はなしと答え、仏はあるべしという、喜んで仏と衆僧を供養す。それから帰る途上仏ある沢辺に休むと猴が蜜を奉り、喜んで起《た》って舞い坑に堕ち死して師質の子と生まる。美貌無双で、家内の器物、蜜で満たさる。相師いわくこの児善徳無比と、因って摩頭羅瑟質《まずらしっしつ》と字《あざな》す。蜜勝の意だ。父母に乞うて出家す、この僧渇する時鉢を空中に擲《なげう》てば自然に蜜もて満ち、衆人共に飲み足ると。『大智度論』二六に摩頭波斯咤比丘《まずはしたびく》は梁棚《りょうほう》あるいは壁上、樹上に跳《おど》り上がるとあるも同人だろう。
これらの例から見ると、摩頭羅なる語の本義は何ともあれ、国としても人としても仏典に出るところ猴に縁あれば、猴の和名マシラはこれから出たのかと思わる。
本来サルなる邦名あるにマシラなる外来語をしばしば用いるに及んだは、仏教|弘通《ぐつう》の勢力に因ったがもちろんながら、サルは去ると聞えるに反してマシラは優勝《まさる》の義に通ずるから専らこれを使うたと見える。『弓馬秘伝聞書』に祝言《しゅうげん》の供に猿皮の空穂《うつぼ》を忌む。『閑窓自語』に、元文二年春、出処不明の大猿出でて、仙洞《せんとう》、二条、近衛諸公の邸を徘徊せしに、中御門《なかみかど》院崩じ諸公も薨《こう》じたとあり。今も職掌により猴の咄《はなし》を聞いてもその日休業する者多し。予の知れる料理屋の小女夙慧なるが、小学読本を浚《さら》えるとては必ず得手《えて》と蟹《かに》という風に猴の字を得手と読み居る。かつて熊野川を船で下った時しばしば猴を見たが船人はこれを野猿《やえん》また得手吉《えてきち》と称え決して本名を呼ばなんだ。しかるに『続紀』に見えた柿本朝臣|佐留《さる》、歌集の猿丸太夫、降《くだ》って上杉謙信の幼名猿松、前田|利常《としつね》の幼名お猿などあるは上世これを族霊《トーテム》とする家族が多かった遺風であろう。『のせざる草紙』に、丹波の山中に年をへし猿あり、その名を増尾の権《ごん》の頭《かみ》と申しける。今もこの辺で猴神の祭日に農民群集するは、サルマサルとて作物が増殖する賽礼《さいれい》という。得手吉とは男勢の綽号《あだな》だが猴よくこれを露出するからの名らしく、「神代巻」に猿田彦の鼻長さ七|咫《し》、『参宮名所図会』に猿丸太夫は道鏡の事と見え、中国で猴《こう》を狙《そ》というも且は男相の象字といえば(『和漢三才図会』十二)、やはりかかる本義と見ゆ。ある博徒いわく、得手吉は得而吉で延喜《えんぎ》がよい、括《くく》り猿《ざる》というから毎々縛らるるを忌んで猴をわれらは嫌うと。
唐の黄巣《こうそう》が乱を為《な》し金陵を攻めんとした時、弁士往き向うて王の名は巣《そう》、それが金に入ると※[#「金+樔のつくり」、第4水準2−91−32]となると威《おど》したのですなわち引き去った(『焦氏筆乗』続八)とあると同日の談だ。
昔狂月坊に汝の歌は拙《まず》いというと、「狂月に毛のむく/\と生《はえ》よかしさる歌よみと人に知られん」。その相似たるより毳々《むくむく》と聞けばたちまち猴を聯想するので、支那で女根を※[#「けものへん+胡」、29−9]※[#「けものへん+孫」、29−9]《こそ》といい(『笑林広記』三)、京阪でこれを猿猴と呼び、予米国で解剖学を学んだ際、大学生どもこれをモンキーと称えいたなど、『松屋《まつのや》筆記』にくぼの名てふ催馬楽《さいばら》のケフクてふ詞を説きたると攷《かんが》え合せて、かかる聯想は何処《どこ》にも自然に発生し、決して相伝えたるにあらずと判る。ただし『甲子夜話』続十七に、舅《しゅうと》の所へ聟見舞に来り、近頃|疎濶《そかつ》の由をいいかれこれの話に及ぶ。舅この敷物は北国より到来せし熊皮にて候といえば、聟|撫《な》で見てさてさて所柄《ところがら》とてよき御皮なり、さて思い出しました、妻も宜《よろ》しく御言伝《おことづて》申し上げますとあるは、熊皮は毳々たらぬがその色を以て聯想したのだ。仏経や南欧の文章に美人を叙するとて髪はもちろんその他の毛の色状を細説せるを、毛黒からぬ北欧人が読んで何の感興を生ぜぬは、自分の色状と全く違うからで、黒熊皮を見ても妻を想起
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