から英語の動詞エープは真似をするの義で、梵語等も猴に基づいた真似する意の動詞がある。『本草啓蒙』に猴の和名を挙げてコノミドリ、ヨブコトリ、イソノタチハキ、イソノタモトマイ、コガノミコ、タカノミコ、タカ、マシラ、マシコ、マシ、スズミノコ、サルと十二まで列《つら》ねた。インドで『十誦律』巻一に、動物を二足四足多足無足と分類して諸鳥|猩々《しょうじょう》および人を二足類とし、巻十九に孔雀、鸚鵡《おうむ》、※[#「けものへん+生」、第4水準2−80−32]々《しょうじょう》、諸鳥と猴を鳥類に入れあり。日本でも二足で歩み得るという点から猴を鳥と見て、木の実を食うからコノミドリ、声高く呼ぶから呼子鳥《よぶこどり》というたらしい。
昔は公家衆《くげしゅう》など生活難から歌道の秘事という事を唱え、伝授に托して金を捲き上げた。呼子鳥は秘事中の大秘事で一通りは猴の事と伝えたが、あるいは時鳥《ほととぎす》とか鶏とか、甚だしきは神武天皇の御事だとか、紛々として帰著する所を知らなんだ。それを嘲《あざけ》った「猿ならば猿にしておけ呼子鳥」と市川|白猿《はくえん》の句がある。イソノタチハキとは何の事か知らぬが、『奥羽観跡聞老誌』九に、気仙郡五葉嶽の山王神は猴を使物とす、毎年六月十五日、猴集って登山しその社を拝む、内に三尺ばかりの古猴一刀を佩《お》びて登り、不浄参詣は必ずその刀を振って追う、人これを怪しむと出づ。馬の話の中に書いて置いたごとく、アラビアの名馬は交会して洗浄せぬ者を乗せずといい、モーリシャス島人は猴に果物を与えて受け付けぬを有毒と知るという(一八九一年板ルガーの『航行記』巻二)。惟《おも》うに老猴よく人の不浄を嗅ぎ分くる奴を撰び教えて帯刀させ、神前へ不浄のまま出る奴原《やつばら》を追い恥かしめた旧慣が本邦諸処にあったから、猴をイソノタチハキというたので、イソは神祠の前を指す古名だろう。イソノタモトマイ、コガノミコ、タカノミコ等は古え※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]女《さるめ》の君《きみ》が巫群《ふぐん》を宰《つかさど》った例もあり、巫女《ふじょ》が猴を馴らして神前に舞わせたから起った名で、タカは好んで高きに上る故の名と知る。
サルとは何の意か知らぬが巫女の長《おさ》を※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]女の君と呼んだなどより考うると、本邦固有の古名らしく、朝鮮とアイヌの辞書があいにく座右にないからそれは抜きとして、ワリス氏が南洋で集めた猴の諸名を見るも、わずかにアルカ(モレラ語)、ルア(サパルア語)、ルカ(テルチ語)位がやや邦名サルに近きを知るのみ。マレイ語にルサあるが鹿を意味す。『翻訳名義集』に※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴《びこう》の梵名摩斯※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]あるいは※[#「麾」の「毛」にかえて「公」の右上の欠けたもの、第4水準2−94−57]迦※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]とある。予が蔵する二、三の梵語彙を通覧するに、後者は猴の梵名マルカタと分るが摩斯※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]らしい猴の梵名は一向見えぬ。しかるに和歌に猴を詠む時もっとも多く用いるマシラなる名は古来摩斯※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]の音に由ると伝うるはいぶかし。ところが妙な事は十七世紀の仏人タヴェルニエーの『印度紀行』に、シエキセラに塔ありてインド中最大なるものの一なり、これに附属する猴飼い場ありて、この地の猴をも近国より来る猴をも収容し商人輩に供餉《ぐしょう》す。この塔をマツラと称うと載せ、以前はジュムナ河が塔下を流れ礼拝前身を浄《きよ》むるに便り善《よ》かったから巡礼に来る者極めて多かったが、その後河渓が遠ざかったので往日ほど栄えぬと述べあり。英国学士会員ボール註に、これは四世紀に晋の法顕《ほっけん》が参詣した当時、仏教の中心だった摩頭羅《まずら》国の名を塔の名と心得伝えたので、十七世紀のオーランゼブ王この地に入って多く堂塔を壊《こぼ》ったが、猴は今も市中に充満し住民に供養さるとある。法顕の遺書たる『法顕伝』『仏国記』共にこの地で仏法大繁盛の趣を書せど猴の事を少しも記さず。それより二百余年|後《おく》れて渡天した唐の玄奘《げんじょう》の『西域記』にはマツラを秣莵羅とし、その都の周《めぐ》り二十里あり、仏教盛弘する由を述べ、この国に一の乾いた沼ありてその側《かたわら》に一の卒塔婆《そとば》立つ、昔|如来《にょらい》この辺を経行した時猴が蜜を奉ると仏これに水を和してあまねく大衆に施さしめ、猴大いに喜び躍って坑《あな》に堕《お》ちて死んだが、この福力に由って人間に生まれたと載す。いと古くより猴に縁あった地と見える。
『和州旧跡幽考』に猿沢池は天竺《てんじく
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