せぬのだ。瑣細《ささい》な事のようだが、心理論理の学論より政治外交の宣伝を為《な》すにこの辺の注意が最も必要で、回教徒に輪廻《りんね》を説いたり、米人に忠孝を誇ってもちっとも通ぜぬ。マローンの『沙翁集』十に欧州の文豪ラブレー、ラフォンテンなどの女人、その根《こん》を創口《きずぐち》に比して男子に説く趣向を妙案らしく喋々《ちょうちょう》し居るが、その実東洋人にはすこぶる陳腐で、仏教の律蔵には産門を多くは瘡門《そうもん》(すなわち創口)と書きあり、『白雲点百韻俳諧』に「火燵《こたつ》にもえてして猫の恋心」ちゅう句に「雪の日ほどにほこる古疵《ふるきず》」。彦山権現《ひこさんごんげん》の戯曲に京極内匠が吉岡の第二女に「長刀疵《なぎなたきず》が所望じゃわい」。手近にかかる名句があるにとかく欧人ならでは妙案の出ぬ事と心得違う者多きに呆《あき》れる。もちろん血腥《ちなまぐさ》からぬ世となりて長刀疵などは見たくても見られぬにつけ、名句も自然その力を失い行くは是非なしとして、毛皮や刀創を多く見る社会にはそれについて同一の物を期せずして聯想する、東西人情は兄弟じゃ。
 女を猴に比する事も東西共にありて、英国の政治家セルデンは女を好まず、毎《つね》にいわく、妻を持つ人はその飾具の勘定に悩殺さる、あたかも猴を畜《か》う者が不断その破損する硝子《ガラス》代を償わざるべからざるごとしと。ベロアル・ド・ヴェルビュの『上達方』に婦人は寺で天女、宅で悪魔、牀《とこ》で猴と誚《そし》り、仏経には釈尊が弟の難陀その妻と好愛甚だしきを醒《さ》まさんとて彼女の瞎《めっかち》雌猿に劣れるを示したと出づ。それから意馬心猿《いばしんえん》という事、『類聚名物考』に、『慈恩伝』に〈情は猿の逸躁を制し、意は馬の奔馳《ほんち》を繋《つな》ぐ〉、とあるに基づき、中国人の創作なるように筆しあれど、予『出曜経』三を見るに〈意は放逸なる者のごとく、愛憎は梨樹のごとし、在々処々に遊ぶ、猿の遊びて果を求むるがごとし〉とあれば少なくとも心猿(ここでは意猿)だけは夙《はや》くインドにあった喩《たと》えだ。
『大和本草』に津軽に果然《かぜん》の自生ありと出づるがどうもあり得べからざる事で、『※[#「車+鰌のつくり」、第3水準1−92−47]軒《ゆうけん》小録』に伊藤仁斎の壮時京都近辺の医者が津軽から果然を持ち来ったと記載しあるを読むと、夜分尾で面を掩《おお》うて臥すというから、何か栗鼠《りす》属のもので真の果然でない。果然は一名|※[#「虫+隹」、31−7]《い》また仙猴《せんこう》、その鼻孔天に向う、雨ふる時は長い尾で鼻孔を塞《ふさ》ぐ、群行するに、老者は前に、少者《わかもの》は後にす。食、相譲り、居、相愛し、人その一を捕うれば群啼《ぐんてい》して相《あい》赴《おもむ》きこれを殺すも去らず。これを来すこと必《ひっ》すべき故、果然と名づくと『本草綱目』に見え、『唐国史補』には楽羊《がくよう》や史牟《しぼう》が立身のために子甥《しせい》を殺したは、人状獣心、この猴が友のために命を惜しまぬは、獣状人心だと讃美しある。されば帝舜が天子の衣裳に十二章を備えた時、第五章としてこの猴と虎を繍《ぬいとり》したのを、わが邦にも大嘗会《だいじょうえ》等|大祀《たいし》の礼服に用いられた由『和漢三才図会』等に見ゆ。二十年ほど前、予帰朝の直前|仰鼻猴《ぎょうびざる》という物の標品がただ一つ支那から大英博物館に届きしを見て、すなわちその『爾雅《じが》』にいわゆる※[#「虫+隹」、31−15]たるを考証し、一文を出した始末は大正四年御即位の節『日本及日本人』六六九号へ録した。かくて津軽に果然の自生は誤聞として、台湾には猴の異種が少なくとも一あり、内地産の猴は学名マカクス・スベシオススの一種に限る。
[#「第2図 支那四川産橙色仰鼻猴」のキャプション付きの図(fig2539_02.png)入る]
 猴はなかなか多種だが熱帯と亜熱帯地本位のもの故、欧州にはただ※[#「くさかんむり/最」、第4水準2−86−82]爾《さいじ》たるジブラルタルにアフリカに多いマカクス・イヌウスとて日本猴に酷似しながら全く尾のない猴が住んでいたが、十年ほど前流行病で全滅した。そんなこと故欧州の古文学や、里譚《りだん》、俗説に猴の話がめっきり見えぬは、あたかも日本の書物、口碑に羊を欠如するに同じく、グベルナチス伯が言った通り、形色、性行のやや似たるよりアジアで猴の出る役目を欧州の物語ではたいてい熊が勤め居る(グ氏『動物譚原』二巻十一章)、支那に猴を出す多種なれば、古来これに注意も深く、それぞれ別に名を附けたは感心すべし。
 李時珍曰く〈その類数種あり、小にして尾短きは猴《こう》なり、猴に似て髯多きは※[#「據−てへん」、32−15]《きょ》なり、猴に似
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