時の名を底ドクすなわち底に著《つ》く御魂といい、ツブ立つ時すなわち俗にヅブヅブグチャグチャなどいうごとく水がヅブヅブと鳴った時の名をヅブたつ御魂、泡の起る時の名を泡さく御魂というたとあるは、死にざまに魂が分解してそれぞれ執念が留まったとしたのだ(『古事記伝』巻十六参照)。異常の時に際し全く別人のごとき念を起すこと、酸素が重なってオゾーンとなり、酸素に異なる特性を具うるごときを別に御魂と唱えて懼《おそ》れたので、ある多島海島民は人に二魂ありとし、西アフリカ人は毎人四魂ありと信じ、また種々雑多の魂ありとしこれを分別すること難く、アルタイ人は人ごとに数魂ありとし、チュクチー人は人体諸部各別にその魂ありとす(一八七二年板ワイツおよびゲルラント『未開民史』巻六、頁三一二、一九〇一年板キングスレイ『西アフリカ研究』一七〇頁、一九〇六年板デンネット『黒人の心裏』七九頁、一九一四年板チャプリカ『西伯利《シベリア》初住民』二八二および二六〇頁)。支那でも『抱朴子』に、分形すればすなわち自らその身三魂七|魄《はく》なるを見る。『酉陽雑俎《ゆうようざっそ》』に人身三万六千神その処に随ってこれに居るなどあるを攷《かんが》え合すべし。介が動物を挟み困《くる》しめた記事は例の『戦国策』の鷸蚌《いつぼう》の故事もっとも顕われ、其碩《きせき》の『国姓爺《こくせんや》明朝太平記』二の一章に、旅人が乗馬して海人《あま》に赤貝を買い取って見る拍子にその貝馬の下顎《したあご》に咋《く》い付き大いに困らす。下人祝してお前は長崎丸山の出島屋万六とて女郎屋の一番名高い轡《くつわ》、その轡へ新しい上赤貝の女郎が思い付いて招かぬに独り食い付くと申す前表《ぜんぴょう》と悦ばす所あるはこれに拠って作ったのだ。その他『甲子夜話』一七に、平戸《ひらど》の海浜で猴がアワビを採るとて手を締められ岩に挟まり動く能わず、作事奉行《さくじぶぎょう》川上某を招く故行って離しやると、両手を地に付け平伏して去ったとあるが、礼に何も持って来たとないところがかえって事実譚らしく、九世紀に支那に渡ったペルシャ人アブ・ザイド・アル・ハッサンの『紀行』(レイノー仏訳、一八四五年板一五〇頁)にも、狐が介の開けるを見、その肉を食わんと喙《くちばし》を突っ込んで緊《きび》しく締められ、顛倒して悶死した処へ往き会わせたアラビア人が介の口に何か光るを見、破って最高価の真珠を獲たと記す。
 本居宣長は※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]田毘古《さるたひこ》神の名を※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]に似たる故とせんは本末|違《たが》うべし。獣の※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]はこの神の形に似たる故の名なるべしと説いた(『古事記伝』巻十五)。これは「いやしけど云々、竜の類いも神の片端と詠みながら、依然神徳高き大神をいかんぞ禽獣とすべけんや」と言った『俗説贅弁』同然の見を脱せず、※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]田毘古が※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]に似たのでなく※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]が※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]田毘古に似たのだとは、『唐書』に、張昌宗姿貌を以て武后に幸せられた時、佞人《ねいじん》楊再思が追従して、人は六郎の貌|蓮花《れんげ》に似たりと言うが、正に蓮花が六郎に似たるのみといったとあるに似た牽強じゃ。既に以て『日本書紀』に、天孫降下の間先駆者還って白《もう》さく、一神あり天の八衢《やちまた》におり、その鼻長さ七|咫《せき》、背長さ七尺余(まさに七|尋《ひろ》と言うべし)、かつ口尻|明耀《めいよう》、眼|八咫《やた》の鏡のごとくにして※[#「赤+色」、109−15]然、赤酸醤に似たりとありて、全く老雄猴の形容だ。宣長これを註して「さて※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]の形のこの神に似たるを以て思うに、鼻の長きも※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]に似たり、また背|長《たけ》七尺余とあるも俗に人の長立《たけだ》ちを背といわばただおよそその長立ちの事にもあるべけれど、もしその義ならばただに長とのみこそいうべきに、背をしもいえるは、これも※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]のごとく這《は》い居ます形についてその背の長さをいうにてもあるべし、神には様々あるめれば這い居たもうとせんも怪しむべきにあらず、もし尋常の人のごとく立ちて坐《ましま》さんには、尻のてり耀くというも似つかわしからぬをや」と言ったはもっともだ。それに介《かい》に手を挟まれて困《くる》しむ内、潮に溺れ命を失うたのも猿田彦は老猴を神としたに相違ない証拠だ。熊野などで番ザルと唱え、猴群
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