+爰」、第3水準1−87−78]田毘古《さるたひこ》の神、阿邪訶《あざか》に坐《いま》せる時に漁《すな》どりして、ヒラブ貝にその手を咋《く》ひ合されて海塩《うしお》に溺《おぼ》れたまひき。かれ、水底に沈み居たまふ時の名を底《そこ》ドク御魂《みたま》といひつ。その海水のツブ立つ時の名をツブ立つ御魂といひつ、その泡《あわ》さく時の名を泡サク御魂といひき」。本居宣長はこのヒラブ貝を月日貝のように説いたが、さすがに学問を重んじただけあって、なお国々の人に尋ね問わば今も古えの名の残れる処もあるべきなりと言われた。そしてまたタイラギという貝あり、ギはカイのつまりたるにて平ら貝の意にて是にやと疑いを存せられたは当り居る。
[#「第10図 紀州新庄村のタチガイ二種」のキャプション付きの図(fig2539_10.png)入る]
 田辺附近の新庄村より六十余歳の老婦多年予の方へ塩を売りに来る。蚤《はや》く大聾《だいろう》となったので四、五十年前に聞いた事のみよく話す。由って俚言土俗に関して他所風の雑《まじ》らぬ古伝を受くるに最も恰好《かっこう》の人物だ。この婆様が四年前の四月、例により塩を担《にの》うて来た畚(フゴ)の中にかの村名産のタチガイ多く入れあった。これは『本草啓蒙』四二にタイラギ、トリガイ(備前、同名あり)、タテガイ(加州)と異名を挙げ、「海中に産す、形蚌のごとくにして大なり、殻薄くして砕けやすく色黒し、挙げて日に映ずれば微《すこ》しく透いて緑色なり。長さ一尺余、一頭は尖《とが》り一頭は漸《ようや》く広く五、六寸ばかり、摺扇《しょうせん》を微しく開く状のごとし、肉の中央に一の肉柱あり、色白くして円に、径《わた》り一寸ばかり、大なるものは数寸に至る。横に切って薄片と成さば団扇の形のごとし、故に江戸にてダンセンと呼び炙《しゃ》食|烹《ほう》食味極めて甘美なり。これ江瑶柱なり、ほかにも三柱ありて合せて四柱なれども皆小にして食うに堪えず、故に宋の劉子※[#「栩のつくり/軍」、第3水準1−90−33]「食蠣房詩」に江瑶貴一柱といえり、その肉は腥靭《せいじん》にして食うべからず、※[#「魚+二点しんにょう+豕」、第3水準1−94−49]※[#「魚+夷」、第3水準1−94−41]《ちくい》「塩辛《しおから》」に製すればやや食うべし、備前および紀州の人この介《かい》化して鳥となるといい、試みに割って全肉を見れば実に鳥の形あり、唐山にもこの説あり、しかれども実に化するや否やを知らず」と出《い》づ。『紀伊続風土記』九七には「立介タチカイ一名鳥介、同名多し、玉※[#「王+兆」、第4水準2−80−73](タイラギ)に似て幅狭く長さ七、八寸、冬より春に至りて食用とす、夏月肉ようやく化して鳥となる。形磯ひよどりに似て頭白く尾なし、鳴く声ヒヨヒヨというごとし、牟婁郡曾根荘賀田浦に多し」と見ゆ。介が鳥になるてふ話は欧州や支那にもありて(マクス・ミュラーの『言語学講義』一八八二年板、二巻五八六頁、王士※[#「示+眞」、第4水準2−82−74]の『香祖筆記』十。〈西施舌海燕の化すところ、久しくしてすなわちまた化して燕と為る〉)、その肉が鳥の形に似るに起る。件《くだん》の老婦が持ち来ったタチガイを見るに二種あり。いずれもピンナ属のもので、ピンナはラテン語、単数で羽、複数の時は翼の義、形が似たので名づく。いずれも海底に直立し、口の下端に近く毛あって石に付くを外国で織って手袋などにする。第十図甲は殻が末広く細条縦横して小刺多し。これを専らタチガイと称し方言ヒランボと呼ぶ。乙は末広ながら甲に比して狭く、その線条|粗《あら》き上ひびわれ多く刺はなし、その肉煙草の味あり、喫烟家|嗜《この》み啖《くら》う。方言これをショボシと称う。『和漢三才図会』四六に、玉※[#「王+兆」、第4水準2−80−73]俗いうタイラギ、またいう烏帽子《えぼし》貝と出づるを見れば、真のタイラギより小さい故小帽子の意でショボシの名あるか。余の所見を以てすれば、『紀伊続風土記』にいえるごとく、タチガイは二種ともタイラギと別物で殻の色黒からず淡黝黄だが、いずれも形はよく似居る。新庄でいうヒランボすなわち真のタチガイが『古事記』に見えた猿田彦を挟んで溺死せしめた介で、ヒランボはその文にいわゆるヒラブ貝なる名の今に残れるものたるや疑いを容れず。宣長がヒラブ貝はもしくはタイラギかと推せしは中《あた》りおり、なお国々の人に尋ねたら今も古名の残った所もあるべしというたが、果して紀州西牟婁郡新庄村に残り居るのだ。猴の話と縁が遠いが、『古事記』は世界に多からぬ古典で、その一句一語も明らめずに過すは日本人の面目を汚す理窟故、猿田彦に因んでヒラブ貝の何物たるを弁じ置く。さて猿田彦が指を介に挟まれ苦しむうち潮さし来り、溺れて底に沈みし
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