部では今もこの猴に種々有用な芸道を仕込む。たとえば、夜《よる》、燭《しょく》を秉《と》って遊宴中、腰掛けを聯《つら》ねた上に数猴一列となって各の手に炬火《かがりび》を捧げ、客の去るまで身動きもせず、けだし盗人の昼寝で当て込みの存するあり、事終るの後|褒美《ほうび》に残食を頂戴して舌を打つ覚悟なんだ。ただし時に懈怠《けたい》千万な猴が火を落したり、甚だしきは余念なく歓娯最中の客連の真中へ炬火を投げ込む事なきにあらず、その時は強く笞うちまた食を与えずして懲らす故閉口して勤務するようになるんだと。ちょっと啌《うそ》のようだがウィルキンソンほどの大権威家がよい加減な言を吐く気遣いなし。明治十年頃まで大流行だった西国合信氏の『博物新編』に、猴は人が焚火した跡へ集り来って身を煖《あたた》むれど、火が消えればそのまま去り、直《すぐ》側《そば》にある木を添える事を知らぬとあったを今に信ずる人も多いが、それは世間知らずの蒙昧な猴どもで、既にパーキンスから、今またウィルキンソンから引いた記述を見ると、少なくとも狗頭猴中もっとも智慧あって古エジプト人に文字の神アヌビスの使者と崇められたいわゆるアヌビスバブーンは、人を見真似に竈《かまど》に火を絶やさず炬火《かがりび》を扱う位の役に立つらしい。ダンテの友が猫に教えて夜食中|蝋燭《ろうそく》を捧げ侍坐せしむるに、生きた燭台となりて神妙に勤めた。因ってダンテに示して「教えて見よ、蝋燭立てぬ猫もなし、心からこそ身は賤《いや》しけれ」と誇るをダンテ心|悪《にく》く思い、一夕鼠を隠し持ち行きて食卓上に放つと、猫たちまち燭を投げ棄て、鼠を追い廻し、杯盤狼藉《はいばんろうぜき》と来たので、教育の方は持って生まれた根性を制し得ぬと知れと言うて帰ったと伝う。海狗《オットセイ》は四肢が鰭《ひれ》状となり陸を歩むに易《やす》からぬものだが、それすらロンドンの観場で鉄砲を放つのがあった。して見ると教えさえすれば猴も秉燭《へいしょく》はおろか中らずといえども遠からぬほどに発銃くらいはするなるべし。ただし『五雑俎』に明の名将威継光が数百の猴に鉄砲を打たせて倭寇《わこう》を殲《ほろぼ》したとか、三輪環君の『伝説の朝鮮』一七六頁が、楊鎬が猿の騎兵で日本勢を全敗せしめたなど見ゆるは全くの小説だ。それから前述のごとく、ベッチグリウ博士が、猴類は人に実用された事少しもなく、いまだかつて木を挽《ひ》き水を汲むなどその開進に必要な何らの役目を務めず、ただ時々飼われて娯楽の具に備わるのみ、それすら本性不実で悪戯を好み、しばしば人に咬み付く故十分愛翫するに勝《た》えずとは争われぬが、パーキンスが述べたごとく、飼い主の糊口《ここう》のために舞い踊りその留守中に煮焚きの世話をし、ウィルキンソンが言った通り人に事《つか》えて種々有用な役を勤むる猴もなきにあらず。したがって十七世紀に仏人バーボーが西アフリカのシエラ・レオナで目撃した大猴バリの幼児を土人が捕え、まず直立して歩むよう教え、追い追い穀を舂《つ》く事と、瓢に水を汲んで頭に載せ運び、また串《くし》を廻して肉を炙《あぶ》る事を教えたというも事実であろう(一七四五年板、アストレイの『新編航記紀行全集』二巻三一四頁)。この猴甚だ牡蠣《かき》を好み、引き潮に磯に趨《おもむ》き、牡蠣が炎天に爆《さら》されて殻を開いた口へ小石を打ち込み肉を取り食う。たまたま小石が滑《すべ》り外《そ》れて猴手を介《かい》に挟《はさ》まれ大躁《おおさわ》ぎのところを黒人に捕え食わる。欧人もこれを食って美味といったが、バーボーは食う気がせなんだという。前にも述べた通り猴は形体表情人を去る事間髪を容《い》れず、したがってこれを殺しこれを食うは人情に反《そむ》くの感あり。楚人猴を烹《に》るあり、その隣人を召すに以て狗羹《こうこう》と為《な》してこれを甘《うま》しとす。後その猴たりしと聞き皆地に拠ってこれを吐き、ことごとくその食を瀉《しゃ》す、こはまだ始めより味を知らざるものなり(『淮南鴻烈解』修務訓)。近年死んだヘッケルがエナ大学の蔵中になき猴種一疋を打ち取った時、英人ミラー大佐、たとい科学のためなりともその罪人を謀殺せるに当ると言うた(一九〇六年板コンウェイの『東方諸賢巡礼記』三一七頁)。コンウェイがビナレスの猴堂に詣《もう》で多くの猴を供養したところに猴どもややもすれば自重して人間を軽んずる気質あるよう記した。これ猴の豪《えら》い点また人からいえば欠点で、心底から人に帰服せぬもの故、ややもすれば不誠実の行い多く、犬馬ほど人間社会の開進に必要な役目を勤めなんだのだ。『大集経』に〈慧炬《えこ》菩薩猴の身を現ず〉、インドでも猴に炬を持たせたものか。
 右述西アフリカのバーボー猴に似た記事が『古事記』にあって「かれ、その※[#「けものへん
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