い。しかるに一方では猴がややもすれば手が長いところから、今も紀州などの田舎では庚申の夜交われば猴に似て手癖悪き子を生むと信ずると同時に、庚申を信ずれば盗難を免るとし、失踪人《しっそうにん》や紛失物を戻し、盗賊を捕うるにこの神に祈り、縄を以てその像を縛るは、その本意神様を盗人と見立てたので、この神、本《もと》は猴だったと知れる。されば僻地《へきち》盗難繁かった処々は、庚申に祈りて盗品を求め、盗もまた気味悪くなってこれを返却した例多く、庚申講を組んで順次|青面金剛《せいめんこんごう》と三猿の絵像を祭りありく風盛んなり。さて田舎の旅宿が大抵その講の元を勤める。盗難多き旅宿は営業ならぬからで、庚申塚を道側に立てるも主として盗難少なく道路安全を冀《ねご》うての事と見ゆ。
『俗説贅弁』巻一や『温故随筆』に徳川幕府中頃までの神道者が庚申は猿田彦命と説いたのを非とし、就中《なかんずく》『贅弁』には神徳高き大神を如何ぞ禽獣とすべけんやと詈り居る。しかるに出口米吉君の近刊『日本生殖器崇拝略説』に『日本書紀通証』から孫引きされた『扶桑拾遺集』に、〈源順《みなもとのしたごう》、庚申|待夜《たいや》、伊勢斎宮に侍りて、和歌を奉る、小序に曰く、掛麻久毛畏幾大神《かけまくもかしこきおおかみ》、怜礼登毛《あわれとも》、愛美幸賜天牟《めぐみさきわいたまいてん》〉とある由。これは衢《ちまた》の神たる猿田彦大神を青面金剛すなわち三猿の親方と同体と心得、道家のいわゆる三尸が天に登って人の罪悪を告ぐるを防がんため、庚申の夜を守って長寿を保たん事をかの大神に祈るの意を述べたと見える。したがって猿田彦と庚申と同一神とは平安朝既に信ぜられいたのだ。さて、『贅弁』に神徳高き大神を如何ぞ禽獣とすべけんやと詈ったが、『玉鉾百首《たまぼこひゃくしゅ》』に「いやしけど、いかつちこたま狐虎、たつの類ひも神の片はし」と詠《よ》んだごとく、上世物をも人をも不思議なものを片端から神としたのは万国の通義で、既に以て秦大津父《はたのおおつち》は山で二狼の闘うを見、馬より下って口手を洗い浄め、汝これ貴き神にして、麁行を楽しむ、もし猟師に逢わば禽《とりこ》にされん、速やかに相闘うをやめよと祈って、毛に付いた血を拭《ぬぐ》いやり放ったという(『書紀』一九)。この人は殷の伝説同様夢の告げで欽明天皇に抜擢せられ、その財政を司って大いに饒富《じょうふ》を致した賢人だが、それほどの智者でも真実狼を大神と心得る事、今日秩父の狼を大口真神と崇むる太郎作輩《たろさくはい》に同じかった。されば猴の特に大きなのを大神とせるも怪しむに足らず。
[#「第7図 狗頭形の文字の神トット」のキャプション付きの図(fig2539_07.png)入る]
[#「第8図 古エジプト土人死後の裁判」のキャプション付きの図(fig2539_08.png)入る]
[#「第9図 狗頭猴悪人の魂を送還す」のキャプション付きの図(fig2539_09.png)入る]
 似た例を挙げると昔いと久しく大開化に誇ったエジプト国でも数種の猴を尊んだ。その内もっとも崇められたはシノセファルス・ハマドリアスてふ狗頭猴で、古エジプト神誌中すこぶる顕著なる地位を占めた。昨今エジプトに産しないでアラビアとアビシニアに棲《す》み、時として大群を成す。身長四フィートばかり、その顔至って狗に似て長く、両肩に立て髪がない。この猴文字の神トットの使者たるのみならず、時としてトット自身もこの猴の形を現じた(第七図)。トットは通常人身|朱鷺《とき》頭で現じたのだ。エジプト人この猴を極めて裁判に精《くわ》しとした。第八図は野干(ジャッカル)頭の神アヌビスと鷹頭の死人の守護神が、死人の業《ごう》を秤《はか》る衡《はかり》の上に狗頭猴が坐し、法律の印したる鳥羽と死人の心臓が同じ重さなるを確かめてこれを親分のトットに報ずるところだ。さて衆神の書記たるトットがこれを諸神に告げるのだ。また第九図のごとく豕《いのこ》に像《かたど》った悪人の魂を舟に載せて、もう一度苦労すべく娑婆《しゃば》へ送還する画もある。またこの猴を月神の使者としその社に飼った。その屍は丁寧にミイラに仕上げて特設の猴墓所に葬った。けだしバッジの『埃及《エジプト》人の諸神』一巻二一頁に言えるごとく、狗頭猴のこの種は至って怜悧で、今も土人はこれを諸生物中最も智慧あり、その狡黠《こうかつ》を遥かに人間を駕するものとして敬重す。古エジプト人これを飼い教えて無花果《いちじく》を集めしめたが、今はカイロの町々で太鼓に合わせて踊らされ、少しく間違えば用捨なく笞《むち》うたるるは、かつて文字の神の権化《ごんげ》として崇拝されたに比較して猴も今昔の歎に堪えぬじゃろとウィルキンソンは言うた(『古埃及人の習俗)』巻三)。またいわく、アビシニアの南
前へ 次へ
全40ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング