これを敬愛称美するとあった。予かつて南ケンシントン美術館に傭《やと》われいし時、インドの美術品に貴婦が、遊逸談笑するに両|肱《ひじ》を挙げて、腋窩《えきか》を露《あら》わすところ多きを見て、インドの貴紳に向い、甚だ不体裁な事と語ると、その人わが見るところを以てすればこれほど端正な相好なしと至って真面目《まじめ》に答え、更に館に多く集めた日本の絵に、美女が少しく脛《はぎ》を露わせるを指ざし、非難の色を示した。されば太宰春台《だざいしゅんだい》が『通鑑綱目《つがんこうもく》』全篇を通じて朱子の気に叶《かの》うた人は一人もないといったごとく、第一儒者が道徳論の振り出しと定めた『春秋』や、『左伝』も、君父を弑《しい》したとか、兄妹密通したの、人の妻を奪うたのという事のみ多く、わが邦で賢母の模範のようにいう曾我の老母も、若い時京の人に相《あい》馴《な》れて京の小次郎を生んだとあるから私通でもしたらしく、袈裟御前《けさごぜん》が夫の身代りに死んだは潔《いさぎよ》けれど、死する事の一日後れてその身を盛遠《もりとお》に汚されたる事千載の遺恨との評がある。常磐《ときわ》が三子助命のために忍んで夫の仇に身を任せたは美談か知らぬが、寵|弛《ゆる》んで更に他の男に嫁し、子供多く設けたは愛憎が尽きる(『曾我物語』四の九、『源平盛衰記』一九、『昔語質屋庫《むかしがたりしちやのくら》』五の一一、『平治物語』牛若奥州|下向《げこう》の条)。しかしながらこれら諸女の譚は、道義に立脚した全くの戯作《げさく》でなく、それぞれかつて実在した事蹟に拠って敷衍《ふえん》したものなれば、要は時に臨んで人を感ぜしめた一言一行を称揚したまでで、各生涯を通じて完全|無瑕《むか》と保険付きでない。女権が極めて軽かった古代には、気が付きいても心に任せぬ事多く、何ともならぬ遭際のみ多かったのだ。いわんや風土習慣ことごとく異なったインドで、しかも西暦紀元前九百五十年より八十六万七千百二年の間にあったという遠い昔のラーマーヤナ事件を、今日他国人どもがかれこれ評するは野暮の至りだが、このような者を宗旨の経王として感涙を催すインド人も迂闊《うかつ》の至り。それを笑いながら、歴史専門家でなければ記憶せぬ善光寺大地震の頃生まれたカール・マルクスを新説として珍重がるも、阿呆の骨頂と岩猿《いわざる》を絵図《えず》と猴話に因《ちな》んで洒落
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