民が屋上に供えた稲稷甘蔗等を食い頬に貯えて去る。万一これを供えざれば大いに瞋《いか》って瓦を破ると述べた。されば今日もビナレスの寺院にハヌマン猴を夥しく供養し、また諸市のバザーに入って人と対等で闊歩し、手当り次第|掴《つか》み歩く。紀州田辺の紀の世和志と戯号した人が天保五年に書いた『弥生《やよい》の磯《いそ》』ちゅう写本に、厳島《いつくしま》の社内は更なり、町内に鹿夥しく人馴れて遊ぶ、猴も屋根に来りて集《つど》う。家々に猴鹿の食物を荒らさぬ用意を致すとあるを見て、インドでハヌマン猴の持てようを想うべし。タヴェルニエーまたサルセッテ島にハヌマン猴王の骨と爪を蔵する銀棺を祀れる塔あり、インド諸地より行列して拝みに来る者引きも切らざりしを、ゴアの天主教大僧正押して取る、ヒンズー教徒莫大の金を以て償わんと乞い、ゴアの住民これを許しその金を以て軍を調《ととの》え貧民を扶《たす》くべしと議せしも聴《き》かれず、これを焼けばその灰を集めてまた祀るを慮《おもんぱか》り、棺を海上二十里|漕《こ》ぎ出し海に沈めたと述べた。
『ラーマーヤナ』は誰も知った通りヒンズー教の二大長賦の一つで、ハヌマン猴王実にその骨髄というべき活動を現わす。この長賦の梗概《こうがい》は大正三年二月十日の『日本及日本人』、猪狩史山氏の「ラーマ王物語」を見て知るべし、余も同年八月の『考古学雑誌』に「古き和漢書に見えたるラーマ王物語」を載せた。迦旃延子《かせんねんし》の『※[#「革+婢のつくり」、第4水準2−92−6]婆沙《びばしゃ》論』に、羅摩那(ラーマーヤナ)一万二千章あり、羅摩泥(ラーヴァナ)私陀(シタ)を将《も》ち去り羅摩(ラーマ)還って将ち来るに一女の故に十八|※[#「女+亥」、82−4]《がい》(今いう百八十億)の多数を殺し、また喧嘩《けんか》の事ばかり述べあるは至極詰まらぬとあるより、日本の僧侶など一向|歯牙《しが》にも掛けなんだらしいが、それは洋人が、『古事記』『日本紀』を猥雑《わいざつ》取るに足らぬ書と評すると一般で、余が交わった多くのインド学生中には羅摩の勇、私陀の貞、ハヌマンの忠義を語るごとに涙下る者少なからぬを見た。今ジュボアの書等より採って略述する。文中人名に漢字を当てたは予の手製でなく実に符秦の朝に支那に入ったカシュミル国の僧伽跋澄の音訳に係る。いわく、羅摩(ラーマ)はアヨジ国王ダサラダが
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