る骨肉間の婚媾は宜《よろ》しからずといったところで仕方がないから、一旦離別して互いに今までのと人を替えて婚姻すれば構いなしと教えたと(スキートおよびブラグデン、巻二、頁二一八)。されば猴に子を祈る事必ずしもインドにのみ始まったと思われず、しかしコータンの故趾からハヌマン像を見出した事もあり(一八九三年板ランスデルの『支那領中央亜細亜』巻二、頁一七六)、昔博通多学の婆羅門が仏教に対して梵教を支那で興しに来た記録もあれば(『高僧伝』六)、甚目寺等で猴像に子を乞うのはあるいはハヌマン崇拝から転化したのかと惟《おも》う。南インドプルバンデルの諸王はハヌマン猴神の裔で尾ありという(ユールの『マルコ・ポロの書』一八七五年板、巻二、頁二八五)。ただし人間に相違ないから猴が化したともいわれず。猴神子なき女を不便《ふびん》がる余り、自ら手を付けて生ませた後胤か、不審に堪えぬ。
[#「第5図 ハヌマン猴」のキャプション付きの図(fig2539_05.png)入る]
 ハヌマン猴、学名セムノピテクス・エンテルス(第五図)はインドに産し、幼時灰茶色で脊より腰へ掛けて暗茶色の一条あり、長ずるに随い黒毛を混じ石板色となる。顔と四肢は黒く鼻より尾根まで三、四フィート、尾はそれより長し。他猴と異なり果よりも葉を嗜《この》み、牛羊同然複胃あり。鼻梁《びりょう》やや人に近く、諸猴に優《すぐ》れて相好《そうごう》美し(ウットの『博物画譜』一)。この猴の大群昔その王ハヌマンに従い神軍に大功ありしとて、ハヌマン猴の称あり。ヒンズー教徒のヴィシュニュ(仏典の韋紐)を奉ずる輩もっともハヌマン神を尊べども他派の者もまたこれを敬し、寺堂園林より曠野に至るまでその像を立てざるなく、韋紐の信者多き地にはその像に逢わずに咫尺《しせき》も歩み得ず、これに供うるは天産物のみで血牲を用いず、猴野生する処へは日々飯菓等の食物を持ち往き養い最大功徳とす(ジュボア『印度の風俗習慣および礼儀』二巻六章)。一七二七年板、ハミルトンの『東印度記』に、ヴィザガパタムの堂に生きた猴を祀《まつ》る、数百の猴食時ここに集まり僧が供うる飯などを享《う》け、食しおわって列を正して退く、その辺で人を殺すは猴を殺すほど危うからずといい、十七世紀に旅したタヴェルニエーの『印度紀行』には、アーマダバット附近の猴、火金両曜ごとに自らその日と知って市中に来り、住
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