逃げて食わなんだが、昨今は喜んで食う。それから『皇都午睡』初篇中巻にいわく、岐蘇《きそ》の猿酒は以前信州の俳友より到来して呑みたるが、こは深山の木の股《また》、節穴などの中に猿秋の木実を拾い取り運び置きたるが、雨露の雫《しずく》に熟し腐るを山賤見出して持ち返り、麻袋へ入れ搾りし物にて黒く濃くして味渋みに甘きを兼ねていかさま仙薬ともいうべき物なりと、熊野にも稀《まれ》にありと聞けど海外に似た例をまだ承らぬが、予の「酒泉の話」(大正六年『日本及日本人』春季拡大号)に述べた通り、樹竹の幹などに人手を借りず酒様の物が出来る例少なからず予の手許に標本が集り居る。由って推し考うるに、獣類が蓄えた果物もしくは食べ残しが瀦《たま》って旨《うま》く醗酵するはあり得る事だ。
 猴類は人に多く似るものほど鬱性に富み、智力増すほど快活を減ずとフンボルトは説いた。賢人憂苦多く阿房《あほ》は常に飛び廻るようなものか。ただしかかる断定は野生の猴を多く見て始めて下すべく、人手に入れたもののみを観察して為し得べきでない。『奥羽観跡聞老志』九に五葉山の山王神は猴を使物として毎年六月十五日猴集まって登山すとあり。紀州の白崎では、以前榕実熟する時、猴これを採りに群集し、田辺附近の竜神山にも、千疋猴とて、夥しき猴の団体を見た事あるも、近年一向なし。猴ごとき本来群居するものの性質行為を研究するは、是非ともその野生群居の処にせにゃならぬに、そんな所は本邦で乏しくなった。支那にも千疋猴あった例、程伯淳、山に遊んで猴一疋も見えず、山僧より〈晏元献南に来て※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴野に満つ〉と聞き、戯れに一絶を為《つく》って曰く、〈聞説《きくならく》※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴性すこぶる霊《さと》し、相車来ればすなわち満山に迎う、騾に鞭《むちう》ちてここに到れば何ぞかつて見ん、始めて覚る毛虫《もうちゅう》にもまた世情〉。猴までも貧人を軽んずと苦笑したのだ。
 ベーカーの『アビシニアのナイル諸源流』十章にいわく、十月に入りて地全く乾けば水を覓《もと》むる狗頭猴の団体極めて夥しく河に赴き、蔭《かげ》った岸を蔽える灌木の漿果《しょうか》を食うため滞留す、彼らの挙止を観るは甚だ面白し、まず大きな牡猴がいかめしく緩歩し老若の大群随い行くに、児猴は母の背に跨《また》がり、あるいは
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