たに異ならず。仕方がないから王宮の後園へ歩み入り、修行して王女の細滑を忘れ切り、神足を恢復せんとしたが、ここは御庭先の栞《しお》り門、戸を立てるにも立てられぬ。象馬《ぞうめ》車乗の喧《かしま》しさに心いよいよ乱れて修行を得ず。地体城中の人民この大仙もし一度でも地を歩まば我ら近く寄りてその足を礼すべきに、毎度飛び来り飛び去るのみで志を遂げぬと嘆《かこ》ちいた。それを知りいた仙人一計を案じ、王女を頼み、城中にあまねく告げしめたは、今日に限り大仙王宮より歩み去れば礼拝随意と、聞いて人民大悦し、街路を浄《きよ》め、幡《はた》を懸け、香を焼《た》き、花を飾って歓迎する。その間を鹿爪《しかつめ》らしく歩んで城から遠からぬ林中に入り、神足を修せんとしたが、鳥が鳴き騒いで仙人修行し得ず。すなわち林樹を捨て河辺に到り、その本法を以て神足を修せんとするに水中魚鼈廻転の声が耳に障《さわ》る。因って山に上り惟《おも》うらく、我今善法を退失せるは皆衆生に由《よ》る。この返報に世間あらゆる地行、飛行、水性の衆生を一切害し尽すべき動物に生まれ変らんと。この悪誓願を発して死んだところ、従前善法浄行の報いで非想非々想天に生まれ、八万劫の長い間、寂静園中に閑静を楽しんだが、業報尽き已《おわ》ってこの地の答波樹林に還り、著翅狸身と作《な》って身広五十|由旬《ゆじゅん》、両翅各広さ五十由旬、その身量百五十由旬あり、この大身を以て空行水陸衆生を殺し、免るるを得る者なく、のち死して阿毘《あび》地獄に生まれたということじゃ。
『仏本行集経』に、飛狸、『経律異相』に、著翅狸、いずれも優陀摩仙が転生とあれば、同物に相違なく、華南で狸というはタライと呼ぶ野猫で、中橋文相好物のタヌキ(これも北支那や黒竜州に産す)でない。故に支那訳経の飛狸、著翅狸はコルゴの英名フライイング・キャット、飛猫に合う。上にも述べた通り、至極怪しい獣でインドにも産すれば(バルフォールの『印度事彙』二)いよいよ仏典の飛狸はコルゴと考定さる。さて『僧伽羅刹《そうぎゃらせつ》所集経』一と二に有翅飛鬼、また羅刹有翅とあり、ハーバート・スペンセルが欧州で天魔に翅を画《えが》くは、蝙蝠を怪獣とせるに基づくといえるごとく、インドの羅刹鬼に翅ありとするは幾分蝙蝠に象《かたど》ったるべきも、右に引いた経文で見ると、多分はコルゴに根源すというべし。邦俗いわゆる天狗
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