の行事をなすと出《い》づ。すべて日吉に二十一社ありて仏神の混合甚だしく、記録に牽強多くて事歴の真相知れがたきも、大体を稽《かんが》うるに、伝教大師この社を延暦寺に結び付けた遥か以前に、二の宮この山の地主と斎《いつ》かれた。そのまた前に猴をこの山の主として敬いいたのがこの山の原始地主で、上に引いたコンウェイの言に倣《なろ》うていえば、拝猴教が二の宮宗に、二の宮宗が一層新米の両部神道に併《あわ》され、最旧教の本尊たりし猴神は記紀の猿田彦と同一視され、大行事権現として二十一社の中班に例したは以前に比して大いに失意なるべきも、その一党の猴どもは日吉の神使として栄え、大行事猴神また山王の総後見として万事世話するの地位を占め得たるは、よく天命の帰する所を知りて身を保ったとも一族を安んじたともいうべく、また以てわが邦諸教|和雍寛洪《わようかんこう》の風に富めるを知るべし。『厳神鈔』に「日吉と申すは七日天にて御す故なり、日吉の葵《あおい》、加茂の桂《かつら》と申す事も、葵は日の精霊故に葵を以て御飾りとし、加茂は月天にて御す故に桂を以て御飾りとす」など、日吉の名義定説なきも、何か日の崇拝に関係ある文字とは判る。バッジいわく、古エジプト人の『死者の書』に六、七の狗頭猴|旭《あさひ》に向い手を挙げて呼ぶ体《てい》を画いたは暁の精を表わし、日が地平より上りおわればこの猴になると附記した。けだしアフリカの林中に日出前|毎《つね》にこの猴喧嘩するを暁の精が旭日《きょくじつ》を歓迎|頌讃《しょうさん》すと心得たからだと。これすこぶる支那で烏を日精とするに似る。日吉山王が猴を使者とするにこの辺の意義もありなん。夜明けに逸早《いちはや》く起きて叫び噪《さわ》ぐは日本の猴もしかり。
『和漢三才図会』に、猴、触穢《しょくえ》を忌む。血を見ればすなわち愁《うれ》うとあるが、糞をやり散らすので誠に閉口だ。果して触穢を忌むにや。次に〈念珠を見るを悪《にく》む。これ生を喜び死を悪むの意、因って嘉儀の物と為しこれを弄ぶ〉とある。吾輩毎度農民に聞くところは例のさるまさるとて蓄殖の意に取るらしく、熊野では毎初春猴舞わしが巡り来て牛舎前でこれを舞わす。また猴の手をその戸に懸け埋めて牛息災なりという。エルウォーシーの『邪視編』に諸国で手の形を画いて邪視を防ぐ論あり。今もこの辺で元三大師の手印などを門上に懸くる。されば猴を
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