猴を神使とせる例、『若狭《わかさ》郡県志』に上中郡賀茂村の賀茂大明神降臨した時白猿|供奉《ぐぶ》す、その指した所に社を立てた。飛騨宕井戸村山王宮は田畑の神らしい。毎年越中魚津村山王より一両度常のより大きく薄白毛の猴舟津町藤橋を渡りてここへ使に参る(『高原旧事』)、江州《ごうしゅう》伊香《いか》郡坂口村の菅山寺は昔猴が案内して勅使に示した霊地の由(『近江輿地誌略』九〇)、下野《しもつけ》より会津方面にかけて広く行わるる口碑に、猿王山姫と交わり、京より奥羽に至り、勇者磐次磐三郎を生む、猿王二荒神を助け赤城神を攻めて勝ち、その賞に狩の権を得、山を司ると(『郷土研究』二の一、柳田氏の説)。これはハヌマンの譚に似居る。厳島の神獣として猴多くいたがその屍を見た者なきに何処《どこ》へ行ったか今は一疋も見えぬ(同四の二、横田氏説)というは、先述ハヌマン猴は屍を隠すてふインド説に近い。かつて其諺《きげん》翁の『滑稽雑談《こっけいぞうだん》』三に猿の口開き、こは安芸《あき》宮島にある祭なり。この島猴もっとも多し、毎年二月十一日申の日を限り、同国島の八幡の社司七日の間|祓《はらい》を行い、申の日に至りてこの島に来り、猿の口開の神事を行う。この日より後この島の猴声を発すといえり。また十一月上申の日|件《くだん》の社司祓神事を行う事二月のごとし、猿の口止《くちどめ》の神事というなり。この後猴声を入るるなりとあるを読んで、何とか実地研究と志しいたところ、右の報告を見てお生憎《あいにく》様と知った。『厳神鈔』に山王権現第一の使者に猿、第二の使者鹿なり。春日大明神第一の使者は鹿、第二の使者は猿なり。日吉《ひえ》にも、インド、セイロン同然猴は屍を匿《かく》す話行われ、唐崎《からさき》まで通ずる猿塚なる穴あり、老い果てた猿はこの穴に入りて出ざる由。猿果てたる姿見た者なし、当社の使者奇妙の働き〈古今|勝《あ》げて計《かぞ》うべからず〉という(『日吉社神道秘密記』)。『厳神鈔』に、初め小比叡峰へ山王三座来りしが、大宮は他所へ移り、二の宮は元よりこの山の地主故独り住まる。その時猿形の山神集まりて種々の遊びをして慰めた。これを猿楽の一の縁起と申す。『日吉社神道秘密記』に、〈大行事権現、僧形猿面、毘沙門弥行事、猿行事これに同じ、猿田彦大王、天上第一の智禅〉。『厳神鈔』に大行事権現は山王の惣《そう》後見たり、一切
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