夜を守りしなるべけれど、追々は徹夜大浮れに宴遊して邪気を禳《はら》うとしたらしく、甚だしきはその混雑中に崩れさせたまえる方さえもある。けだしこの夜男女の事あるを大罪として天に告げらるるを懼《おそ》れ、なるべく多勢集って夜を守るを本意としたのだ。三尸は小鬼の類らしい。それを庚申の三猿もて表わしたというが通説だ。
 さて上述インドで猴の尸《しかばね》を見るを不吉とするよりついに猴は死なぬものというに至ったごとく、庚申の夜夫婦の道を行うを避けたところから、後には、『下学集』に〈この夜盗賊事を行うに利あり、故に諸人眠らずして夜を守るなり、ある説にいわく、この夜夫婦婬を行えばすなわちその妊むところの子必ず盗と作す、故に夫婦慎むところの夜なり〉といった通り信ずるに及んだのだ。明和二年刑せられた巨盗真刀徳次郎はこの夜孕まれた由。庚申の申は十二畜の猴に中《あた》る。猴は前にもしばしば述べたごとくすこぶる手癖の悪いもので盗才が多い。パーキンスの『アビシニア住記』一にいわく、カルトウムで狗頭猴の牡一と牝二に芸させて活計する人予に語ったは、この牡猴は無類の盗賊で芸を演ずる傍《かたわら》一日分の食物を盗むから、マア数分間見ていなさいとあって、猴使いがその猴を棗売《なつめう》りの側へ伴い行き蜻蛉返《とんぼがえ》りを演ぜしめた。予注意して見ると、猴は初めから棗に眼を付けたが少しも気色に露《あら》わさねば誰もこれを知らず、猴初めは棗入れた籃《かご》に近寄るを好まぬようだったが芸をやりながら漸次これに近付き、演技半ばにたちまち地に伏して屍のごとし、やがて飛び起きて棗売りの顔を見詰め、大いに叫ぶ状《さま》、どこか痛むか何か怒るものに似たり、かくて後肢を以て能う限りの棗を窃《ぬす》めど後肢のほかは少しも動かさず、棗売りは猴に睨《にら》まれて大いに呆《あき》れ、一向盗まれいると気付かず、傍人これを告ぐるを聞いて初めて暁《さと》り大笑いした。その間に猴|素迅《すばや》く頬嚢に盗品を抛《な》げ込みたちまち籃を遠ざかる。たまたま一童強くその尾を牽《ひ》いたので、さては露われたか定めて棗売りの仕返しだろうと早合点してその童子の側を通り、一両人の脚下を潜《くぐ》って棗売りに咬《か》み付くところを猴使いが叱り止めて御無事に事済んだと。
 明の陶宗儀の『輟耕録《てっこうろく》』二三に、優人《わざおぎ》杜生の話に、韶州
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