ろうと言われた。当時パリにあった土宜法竜師(現に高野山管長)へ問い合わせたところ、青面金剛はどうもハヌマンが仕えた羅摩の本体韋紐神より転化せるごとしとて、色々二者の形相を対照し、フランクス氏の推測|中《あた》れるよう答えられた(一九〇三年ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』九輯十一巻四三〇頁已下、拙文「三猿考」)。ここに詳述せぬが二氏の見は正しと惟《おも》う。『垂加文集』に〈庚申縁起《こうしんえんぎ》、帝釈猿を天王寺に来たらしむ云々、これ浮屠《ふと》通家説を窃みこれを造るのみ〉とあれど、遠く三国時代に訳された『六度集経』に、羅摩王物語を出して猴王(スグリヴァ、上出)衆を率い海に臨み、以て渡るなきを憂う。天帝釈化して猴となり身に疥癬を病めり、来り進んで猴衆に石を負わせ、海を杜《ふた》がしめ衆|済《わた》るを得とあり。『宝物集』にも似た事を記す。『委陀《ヴェーダ》』にハヌマンの父マルタ(風神)を帝釈の最有用な味方とし韋紐を帝釈の応神とす。後《のち》韋紐の名望高まるに及び全く帝釈と分離対抗し風神猴となって韋紐に従う(グベルナチス『動物譚原』二巻九九頁)。故に韋紐転化の青面金剛を帝釈の使者、猴を青面金剛の手下とするは極めて道理なり。『嬉遊笑覧』に『遠碧軒随筆』を引いて、庚申の三猿はもと天台大師三大部の中、止観《しかん》の空仮中の三諦を、不見《みざる》、不聴《きかざる》、不言《いわざる》に比したるを猿に表して伝教大師《でんぎょうだいし》三猿を創《はじ》めたという。
 しかれども一八八九年板モニエル・ウィリアムスの『仏教講義』に、オックスフォード大学の博物館に蔵する金剛尊は三猴を侍者とすと記し、文の前後より推すにどうもチベット辺のもので日本製でなさそうだった。その出所について問い合わせたが氏既に老病中で明答を得ず。かれこれするうち予も帰朝してそれなりで過した。『南畝莠言《なんぽゆうげん》』の文を読み損ねて勝軍地蔵を日本で捏造《ねつぞう》したように信ずる者あるに、予はチベットにも北京にもこの尊像あるを確かに知る。それと同例で庚申の三猿も伝教の創作じゃなかろう。道家の説に彭《ほう》姓の三|尸《し》あって常に人身中にあり、人のために罪を伺察し庚申の日ごとに天に上って上帝に告ぐる故、この夜|寝《いね》ずして三尸を守るとあって、その風わが邦にも移り、最初は当日極めて謹慎し斎戒してその
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