の血を新たに鋳た鐘に塗り、殺された者の魂が留まり著いて大きに鳴るように挙行されたのだ。その証拠は『説苑《ぜいえん》』十二に秦と楚と軍《いくさ》せんとした時、秦王人を楚に遣《つか》わす、楚王人をしてこれに汝《なんじ》来る前に卜《うらな》いしかと問わしむると、いかにも卜うたが吉とあったと答えた。楚人その卜いは大間違いだ、楚王は汝を殺して鐘に血塗らんとするに何の吉もないものだと威《おど》した。秦の使者曰く、軍が始まりそうだからわが王我をして様子を窺《うかが》わしむるに、我殺されて還《かえ》らずば、わが王さてはいよいよ戦争と警戒準備怠らぬはずだからわがいわゆる吉だ。そのうえ死者もし知る事なくんばその血を鐘に塗りて何の益あろうか、万一死者にして知るあらばわれは敵を相《たす》くるはずがない。楚の鐘鼓をして声を出さざらしめんに楚の士卒を整え軍立《いくさだて》をする事がなるまい。それ人の使を殺し人の謀《はかりごと》を絶つは古の通議にあらざるなり。子大夫試みにこれを熟計せよと強く出たので、楚王これを赦《ゆる》し還らせたとある。
このついでにいう、『日本霊異記』や『本朝文粋』に景戒《きょうかい》や※[#「大/周」、第3水準1−15−73]然《ちょうねん》が自ら羊僧と名のった由見ゆ。『塵添※[#「土へん+蓋」、第3水準1−15−65]嚢鈔《じんてんあいのうしょう》』十三に羊僧とは口に法を説かざるをいう。羊は卑しき獣とす、獣中に羊のごとく僧中に卑しという心なりとあるは牽強で、『古今要覧稿』五三〇には、〈『仏説大方広十輪経』いわく犯不犯、軽重を知らず、微細罪懺悔すべきを知らず、愚痴無智にして善智識に近からず、深義のこれ善なるか善にあらざるか諮問する能わず、かくのごとき等の相、まさに唖羊僧《あようそう》たるべし〉とあって、羊僧は唖羊僧の略とまでは判るが、何故かかる僧を唖羊僧というかが知れぬ。熊楠、『大智度論』巻三を見るに僧を羞僧、無羞僧、唖羊僧、実僧の四種に分つ。破戒せずといえども〈鈍根無慧、好醜を別たず、軽重を知らず、有罪無罪を知らず、もし僧事あるに、二人ともに諍《あらそ》うに断決する能わず、黙然として言なく〉、譬《たと》えば、白羊、人の殺すに至っても声を作《な》す能わざるがごとし、これを唖羊僧と名づくとある。これで羊僧てふ語も綿羊が声立てずに殺さるるに基づくと知った。泰西の十二宮のうち牡綿羊宮《アリエス》を古く白羊宮と漢訳しあるので白羊とは綿羊と判る。
西アフリカのアシャンチー人伝うるは、昔上帝|人間《にんかん》に住み面《まのあた》り談《はな》したから人々幸福だった。例せば小児が薯蕷《やまいも》を焼くとき共に食うべき肴《さかな》を望まば、上帝われに魚を与えよと唱えて棒を空中に抛《ほう》ればたちまち魚を下さった。しかるに世間はかく安楽でいつまでも続かず、一日婦女どもが食物を摺《す》り調える処へ上帝来り立ち留まって観《み》るを五月蠅《うるさ》がり、あっちへ行けといえど去らず、婦女ども怒って擂木《すりこぎ》で上帝を打ったから、上帝倉皇天に登り復《また》と地上へ降《くだ》らず、世は永く精物《フィチシュ》に司配さる。因って今も人々戻らぬ昔を追懐して、あの時婆どもが上帝を打たなんだらどんなにわれわれは幸福だろうと嘆息する。ただし上帝は随分人思いの親切者で天に引き上げた後《のち》山羊を降して告げしめたは、これから死というもの来て汝らを取り殺すが汝ら全く亡くなるでなく天に来りてわれとともに住むのだと。山羊この報を持って町へ来る途上|好《よ》き草を見て食いに掛かる。上帝これを見て綿羊を遣わし、前同様に人に告げしめたところ、綿羊誤って上帝の御意に汝ら死なばそれ切りとあると告げた。跡へ来った山羊が上帝の御意に汝ら死するに決まって居るが、それ切り亡くなるでない、天へ上って上帝近く住むはずとあると告げた。その時人々山羊に対《むか》い、それは神勅でない、綿羊の伝命が上帝の御意と信ずると述べたから、人間が死亡し始めたそうだ。同じアシャンチー人の中にも異説ありて最初不死の報を承ったは綿羊だが、途上で道草を食う間に山羊がまず人間に死の命を伝え、それを何事とも知らず無性に嬉《うれ》しがって御受けした此方《このかた》人は皆死ぬという由(ベレゴーの『シェー・レー・アシャンチー』一九〇六年板一九八頁)。
『太平記』に唇亡びて歯また寒くは分って居るが、その次に魯酒薄うして邯鄲《かんたん》囲まる、これには念の入った訳がある。楚の宣王諸侯を朝会した時、魯の恭公|後《おく》れ至り進上した酒が薄かったから宣王怒った。恭公我は周公の胤《いん》にして勳王室にあり、楚ごとき劣等の諸侯に酒を送るさえ礼に叶《かな》わぬに、その薄きを責むるも甚だしと憤って辞せずに還った。宣王すなわち斉とともに魯を攻めた。梁の恵王常に趙を撃たんとしたが楚を畏れて手控えいた、今楚が魯を事として他を顧みる暇《いとま》なきに乗じ兵を発して趙の都邯鄲を囲んだというので、セルヴィアの狂漢が奮うて日本に成金が輩出したごとく、事と事が間接に相因るを意味す。インドにも右様の譬えがある。『雑宝蔵経』八に下女が麦と豆を与《あずか》り居ると、主人の家の牡羊が毎度盗み食い減らすから主人に疑わるるを憤り、羊を見る度《たび》杖で打ち懲らす。羊も下女を悪《にく》みその都度|觝触《つきかか》る。一日下女が火を取りおり、杖を持たぬを見て羊直ちに来り襲う。下女|詮方《せんかた》なさにその火を羊の脊に置くと羊熱くなりて狂い廻り、村に火を付け人多く殺し山へ延焼して山中の猴《さる》五百疋ことごとく死んだ。諸天これを見て偈《げ》を説いていわく、〈瞋恚《しんい》闘諍間、中において止むるべからず、羝羊《ていよう》婢とともに闘い、村人|※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴《びこう》死す〉と。『菩薩本行経』には、一婦人|※[#「麩」の「夫」に代えて「少」、第4水準2−94−55]《こがし》を作る処へ羊来り盗むを、火を掻《か》く杖に火の著いたまま取り上げて打つと羊毛に燃え付いた。そのまま羊が象|厩《べや》に身を摺《す》り付くると、いよいよ火事となりて象も猴も焼け死んだとある。象厩に猴を畜《か》えば象を息災にすとシャムでも信ずる由、クローフォールドの『暹羅《シャム》使記』に見ゆ。
『説苑』七に楊朱《ようしゅ》が梁王に見《まみ》えて、天下を治むる事|諸《これ》を掌《たなごころ》に運《めぐ》らすごとくすべしという。梁王曰く、先生、一妻一妾ありて治むる能わず、三畝の園すら芸《くさき》る能わざるに、さように容易《たやす》く天下を治め得んやと。楊朱曰く、君かの羊を見ずや、百羊にして群るれば五尺の童子一人杖を荷《にの》うてこれを東西思いのままに追い得るがごとし、堯をして一羊を牽《ひ》き舜をして杖を荷うてこれを追わしめば、なかなか思いのままにならぬ、すなわち乱の始めだ。大を治めんとする者は小を治めず、大功を成す者は小苛《しょうか》せずと。
末吉安恭氏来示に、琉球人は山羊を温柔な獣とせず、執拗|剛戻《ごうれい》な物とす。縄にて牽き行く時その歩を止めて行かぬ事あり、その時縄を後に牽かば前に出づるも前に牽かば退くのみなり、故に山羊は天《あま》の邪鬼《じゃく》だというと、これは足の構造に基づくはもちろんながら、山羊、綿羊共に決して一汎《いっぱん》にいわるるほど柔順でなく卞彬《べんぴん》は羊性淫にして很《もと》るといった。很は〈従い聴かざるなり、また難を行うなり〉とある、それを一疋ずつ扱わで一群として扱う事の易《やす》きは誠に楊朱の言のごとし。予欧州にあった日、大高名の学者と伴《つ》れて停車場へ急ぐ途中種々の事を問い試むるにその返答は実に詰まらぬものばかりだった。われも人も肩を軋《きし》って後れじと専念する際にはいかな碩儒《せきじゅ》も自分特有の勘弁も何も出ないのだ。されば人間も羊同然箇人としてよりは群集としての方が扱いやすいかも知れぬ。
『孔子|家語《けご》』や『説苑』に季桓子《きかんし》井を穿《うが》ちて土缶《つちつぼ》を得、中に羊あり、土中から狗《いぬ》を得たといって孔子に問うと、孔子はさすが博識で、われ聞くところでは狗ではなくて羊だろう、木の怪は※[#「(止+(首/儿)+巳)/夂」、第4水準2−5−28]罔両《きもうりょう》、水の怪は龍罔象、土の怪は※[#「羚」の「令」に代えて「賁」、16−5]羊《ふんよう》というからきっと羊で狗であるまいと対《こた》えたから桓子感服したとある。『韓詩外伝』には魯哀公井を穿たしむるに一生羊を得、公祝をしてこれを鼓舞して上天せしめんとしたが羊上天し能わず、孔子見て曰く水の精は玉、土の精は羊となる、この羊の肝は土だと、公それを殺して肝を視《み》れば土であったと出づというが、予の蔵本には見えぬ。虚譚のようだが全く所拠《よりどころ》なきにあらず、『旧唐書《くとうじょ》』に払菻国《ふつりんこく》に羊羔《ひつじのこ》ありて土中に生ず、その国人その萌芽《ほうが》を伺い垣を環《めぐ》らして外獣に食われぬ防ぎとす。しかるにその臍地に連なりこれを割《さ》けば死す、ただ人馬を走らせこれを駭《おどろ》かせば羔驚き鳴きて臍地と絶ちて水草を追い、一、二百疋の群を成すと出づ。これは支那で羔子《カオツェ》と俗称し、韃靼《だったん》の植物羔《ヴェジテーブル・ラム》とて昔欧州で珍重された奇薬で、地中に羊児自然と生じおり、狼好んでこれを食うに傷つけば血を出すなど言った。『古今要覧稿』に引いた『西使記』に、〈※[#「土へん+龍」、第3水準1−15−69]《ろう》種の羊西海に出《い》づ、羊の臍を以て土中に種《う》え、漑《そそ》ぐに水を以てす、雷を聞きて臍系生ず、系地と連なる、長ずるに及び驚かすに木声を以てすれば、臍すなわち断ち、すなわち能く行き草を噛む、秋に至り食すべし、臍内また種あり〉というに至りては、真にお臍で茶を沸かす底の法螺談《ほらばなし》で、『淵穎集』に西域で羊の脛骨を土に種《う》えると雷鳴に驚いて羊子が骨中より出るところを、馬を走らせ驚かせば臍緒を断ちて一疋前の羊になるとあるはますます出でていよいよ可笑《おか》し。
十八世紀の仏国植物学大家ジュシューいわく、いわゆる植物羔《ヴェジテーブル・ラム》とは羊歯《しだ》の一種でリンナースが学名をポジウム・バロメツと附けた。その幹一尺ほど長く横たわるを四、五の根あって地上へ支《ささ》え揚ぐる。その全面長く金色《きんいろ》な綿毛を被った形、とんとシジアの羔《こひつじ》に異ならぬ。それに附会して種々の奇譚が作られたのだと(『自然科学字彙《ジクチョネール・デ・シャンス・ナチュレル》』四巻八五頁)。予昔欧州へ韃靼から渡した植物羔を見しに、巧く人工を加えていかにも羊児ごとく仕上げあった。孔子が見たてふ※[#「羚」の「令」に代えて「賁」、17−9]羊談もかようの物に基づいただろう。また『輟耕録《てっこうろく》』に漠北で羊の角を種えて能く兎の大きさの羊を生ず、食うに肥美《うま》しとある(『類函』四二六)。一六三八年アムステルダム板リンショテンの『航海記』一一二頁に、ゴア市の郊外マテヴァクワスなる土堤《どて》へ羊や牛の角を多く棄つる。これはインド人もとよりかかる物を嫌うが上に、スペインやポルトガルよりの来住人は、不貞の淫婦の夫を角生えたと罵《ののし》り、近松の浄瑠璃に夫が不在中、妻が間男《まおとこ》拵《こしら》えたを知らずに、帰国早々知り合いより口上なしに苧麻《おあさ》を贈りて、門前へ積み上げたごとく、角を門前へ置かれたり、角や角の形を示さるるを妻が姦通しいる標示とする故、太《いた》く角を嫌うからだ。さてこの土堤に捨てられた角は、日数経て一|掌《パーム》、もしくはそれ已上《いじょう》長き根を石だらけの荒地に下す事、草木に異《かわ》らず、他に例もなければ訳も別らず。千早振《ちはやぶ》る神代も聞かぬ珍事なるを予しばしば目撃した。だからゴアの名物は間男持ちの女で角を切ってもまた根ざすと苦笑いながらの評判だとある。わが邦で嫉妬を角というと多
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング