分同意義だろうが、この事甚だ奇怪だ。
 ブラウンは槲寄生《ミスルトー》の種を土に蒔《ま》いて生《は》やすは難いが、ゴア辺で羊の角が根生えする地さえあり、かたがた失望すべからずというた(『ガーズン・オヴ・シプレス』のボーン文庫五四七頁)。熊楠いう、これも※[#「羚」の「令」に代えて「賁」、18−6]羊や羔子同様多少|拠《よるところ》ある談で、わが邦に鹿角芝《ろっかくし》などいう硬《かた》い角状の菌あり、熱帯地には夥《おびただ》しく産する。それがたまたま角捨て場の荒土より生《は》ゆるを捨てた角が根生えしたと誤認したのであろう。また似た事が梁の任※[#「日+方」、第3水準1−85−13]の『述異記』下に出《い》づ。いわく、秦の繆公《ぼくこう》の時陳倉の人地を掘りて羊状で羊でなく、猪に似て猪でない物を得、繆公道中で二童子に逢う、曰くこれを※[#「虫+媼のつくり」、18−10]《おう》と名づく。地中にあって死人の脳を食う。松柏《しょうはく》もてその首を穿てばすなわち死すと、故に今柏を墓上に種《う》えてその害を防ぐなりと。『史記評林』二八に『列異伝』を引いて、陳倉の人異物を得て王に献じに行く道で二童子に逢う、いわくこれを※[#「女+胃」、18−12]《い》と名づけ、地下にありて死人の脳を食うと、※[#「女+胃」、18−13]いわく、かの童子を陳宝と名づく、雄を得る者は王、雌を得る者は伯たりと。すなわち童子を追うと雉《きじ》と化《な》った。秦の穆公《ぼくこう》大いに猟してやっとその雌の方を獲、祠《ほこら》を立って祭ると光あり、雷声す。雄は南陽に止まるに赤光あり、長《たけ》十余丈、時々来って雌と合う。故に俗にその祠を宝夫人の祠と称したとありて、穆公は雌ばかり獲たから伯になったのだ。かく怪物同士が本性を告訴し合う話がインドにもあり、それにもやはり一方は土中に住んだとある。『諸経要集』に引いた『譬喩経』に富人が穀千|斛《ごく》を地に埋め、春暖に至り種を取ろうと開いて見れば、穀はなくて手足も頭目もない頑鈍肉様の一虫あるのみ。皆々怪しんで地上へ引き出し、汝何者ぞと問えど返事せぬ故、錐《きり》で一所刺すと、初めて、我を持ちて大道傍に置かば我名をいう者来るはずと語った。道傍へ置くに三日の中に誰もその名を言い中《あて》る者なし。爾時《そのとき》数百人黄なる馬と車に乗り、衣服も侍従も皆黄な一行が遣って来り、車を駐《と》めて彼を穀賊と呼び、汝はどうしてここに在るかと問うと、われは人の穀を食うたからここへ置かれたと答え、久しく話して黄色連は別れ去った。主人穀賊に彼は誰ぞと問うと、彼こそ金宝の精で、この西三百余歩に大樹あり、その下に石の甕《かめ》を埋め、黄金中に満ち居る、その精だといった。主人数十人を将《ひき》い、往き掘りてその金を得、引き返して穀賊の前へ叩頭《こうとう》し、何とか報恩供養したいから拙宅へ二度入りをと白《もう》すと、穀賊、さてこそと言わぬばかりに答うらく、前に君の穀を食いながら姓字を語らなんだは、君にこの金を得せしめて報いたかったからだ。今既に事済んだ上は転じて福を天下に行うべし、住《とど》まる事|罷《まか》りならずと言い終って忽然見えずなったとある。『阿育王譬喩経』には大長者が窖《あな》に穀千斛を蔵し、後これを出すに穀はなくて三歳ばかりの一小児あり、言語せぬ故何やら分らず。大道辺に置いて行人に尋ぬれど識《し》る者なし。しかるところ、黄色の衣を着、黄牛に車を牽かせて乗り、従者ことごとく黄色な人が通り掛かり、小児を見るとすなわち穀賊何故ここに坐し居るかと問うた。この小児は五穀の神で、長者に向い、今往ったのは金の神だ、彼が往った方へ二百歩往かば朽木の下に十斛の金を盛った甕がある、それを掘り取ってわが君の穀を食った分を棒引きに願うと、教えの任《まま》にその所を掘って大金を獲、大いに富んだとして居る。
 五穀の神といえば欧州にも穀精てふ俗信今も多少残存する。ドイツのマンハールト夥しく材料を集めて研究した所に拠れば、穀物の命は穀物と別に存し、時として或る動物、時として男、もしくは女、また小児の形を現わすというのが穀精の信念だ。穀精が形を現わす動物は、牛、馬、犬、猫、豕、兎、鹿、綿羊、山羊、狐、鼠、鶏、天鵞その他なおあるべし。支那、日本の玄猪神、稲荷《いなり》神いずれも穀精にほかならぬ。フレザー曰く、何故穀精がかく様々の動物の形を現ずると信ぜらるるかとの問いに対《こた》えん、田畑に動物が来るを見て、原始人は穀草と動物の間に神秘な関係ありと察すべく、上世今のごとく田畑を取り囲わなんだ時には、諸般の動物自在にこれに入り行《ある》き得た。故にその頃は牛馬ごとき大きな物も、遠慮なく田畑に入り行《ある》いたから、穀精牛馬形を現わすとさえ信ずる処あり、禾《か》を苅る時、兎、雉等が苅り詰められて最後の一株まで残り匿《かく》るるが、それも苅られて来り出づるを、原始人が見て禾の精が、兎、雉等に化けて逃げ出すと認め、かかる処へ知らぬ人が来会す場合には、穀精が人に現じたと考え、さてこそ穀精あるいは人、あるいは諸動物の形して現《あら》わるてふ信念が起ったのだと。この説に対して予全く異論なきにあらざれど、今しばらくこれに従うて羊を穀精とした遺風の数例を挙げんに、スイスの一部では最後の稈《わら》一|攫《つか》みを苅り取った人を麦の山羊と名付け、山羊然とその頸に鈴を付け、行列して伴れ行き酒で盛り潰《つぶ》す。スコットランドのスカイ島では、以前自分の麦を苅り終った百姓が、麦穂一束を、隣りのまだ苅り終らぬ百姓へ送り、その百姓苅り終る時またその隣りへその束を贈る。かくて村中ことごとく苅り終るとその一束が百姓中を廻りおわる。この一束を跛山羊《ちんばやぎ》と名づく。穀精が最後まで匿れいた一束を切られて一脚傷つけたてふ意らしい。仏国グレノーブル辺では麦苅り終る前に、花とリボンで飾った山羊を畑に放ち、苅り手競うてこれを捕う。誰かがこれを捕え得たら主婦これを執えおり、主公これを刎首《くびは》ね、その肉で苅入れ祝いの馳走をする。また肉の一片を※[#「酉+奄」、第3水準1−92−87]《しおづけ》して次年の苅入れ時まで保存し、その節他の一羊を殺して前年の※[#「酉+奄」、第3水準1−92−87]肉を食うた跡へ入れ替える(フレザーの『金椏篇《ゴルズン・バウ》』一板二巻三章)。これらいずれも穀精山羊形で現わると信じた遺俗で、所により穀精と見立てた獣を春になって殺し、その血や骨を穀種と混じて豊穣を祈るあり、穀を連枷《からさお》で※[#「てへん+二点しんにょうの過」、第3水準1−84−93]《はた》いてしまうまで穀精納屋に匿れいるとか、仲冬百姓が新年の農事に取り掛からんと思う際、穀精再び現わるとか、山羊と猪の差こそあれ、わが邦の玄猪神に髣髴《ほうふつ》たる穀精の信念が今も欧州に存しいるので、かかる獣形の穀精が進んでデメテルごとき人形の農神となった事、狐は老翁形の稲荷大明神となったに同じ。
[#地から2字上げ](大正八年一月、『太陽』二五ノ一)



底本:「十二支考(下)」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「南方熊楠全集 第一・二巻」乾元社
   1951(昭和26)年
初出:「太陽 二五ノ一」
   1919(大正8)年1月
入力:小林繁雄
校正:門田裕志、仙酔ゑびす
2009年3月31日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング