十二支考
羊に関する民俗と伝説
南方熊楠

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)張り交《ま》ぜの

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(例)紙|潰《つぶ》しな

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(例)※[#「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2−88−48]
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「張り交《ま》ぜの屏風《びょうぶ》ひつじの五目飯《ごもくめし》」てふ川柳がある。この米高また紙高の時節に羊に関する雑談などを筆するは真《ほん》に張り交ぜ屏風を造って羊に食わすほど紙|潰《つぶ》しな業《わざ》と思えど、既に六、七年続き来った『太陽』の十二獣談を今更中絶も如何《いかん》と、流行感冒の病み上りでふらつく頭脳で思い付き次第に書き出す。

 既に米高と言ったから、米高がかった話より初めよう。昔スウェーデン大凶年で饑飢免るべからずと知れた時、国民会議してすべての老人と病人を殺し、せめては少壮者を全く存せんと決したが、国王かかる残虐を行うに忍びず、念のために神慮を伺うた。神託宣していわく、もしこの国に年若く姿貌《すがたかたち》端正にして智慮に富み、足で歩まず、馬に騎《の》らず、車に乗らず、日中でなく、夜中でなく、月の前半でも後半でもなく、衣を著《き》ず、また裸にもあらず、かくてシグツナの王宮に詣《いた》り得る美なる素女《きむすめ》あらば、その女こそ目前差し迫った大禍難を無事に避くべき妙計を出し得べけれと。
 爾時《ときに》ヴェンガイン村に一素女あり、ジサと名づく、貞操堅固、儀容挺特、挙世無双だった。数千の無辜《むこ》の民を助けたさに左思右考して神託通りにこの難題を見事|遣《や》って退《の》けた。
 ジサ女、年中何の月にも属せず、太陽天に停《とど》まって動かぬと信ぜらるる日を択《えら》び、身に罟《あみ》を被《おお》ったのみ故、裸とも著衣とも言えぬ。それから一足を橇《そり》に、一足を山羊《やぎ》の背に載せて走らせ、満月の昏時《くれどき》、明とも暗とも付かぬうちに王宮に到った。王大いに悦び救済の法を諮《はから》うと、ジサそれは容易な事、国内に荒野が多い、それへ人民の一部分を移して開墾しなさいと勧め、王これに従って見事に凶難を免れた。この王も年若くて美男だったから、相談たちまち調《ととの》ってジサを娶《めと》り挙国|極《きわ》めて歓呼した。古スウェーデン三大祭の一たるジサ祭はこの記念のために始められたので、かの国キリスト教に化した後も、毎年二月初めの日曜にこれを祝うて今に絶えぬと、ロイドの『瑞典小農生活《ピーサント・ライフ・イン・スエズン》』に出《い》づ。
 山羊はスウェーデンで魔の乗物と信ぜらるれど、昔は雷神トールの車|牽《ひ》きとされた(グリンムの『独逸鬼神誌《ドイチェ・ミトロギエ》』二板六三二頁)。ジサ、本名ゴア、原《もと》農産物を護《まも》る女神という。惟《おも》うにこれまた山羊を使い物としたから右様の話が出来たのであろう。
 英国の俚諺《りげん》に、三月は獅子のように来り、子羊のごとく去るというは、初め厳しく冷ゆるが、末には温かになるを指《さ》す。しかるに国に随《よ》っては、ちょうどわが邦《くに》上方《かみがた》で奈良の水取《みずとり》といって春の初めにかえって冷ゆるごとく、暖気一たび到ってまた急に寒くなる事あり。仏国の東南部でこれを老女《ばば》の次団太《じだんだ》と呼ぶ。俗伝に二月の終り三日と、三月の始め三日はほとんど毎年必ず寒気が復《かえ》って烈《はげ》しい。その訳は昔老婆あって綿羊を飼う。二月の末|殊《こと》に温かなるに遇《あ》い「二月よさようなら、汝は霜もてわが羊を殺し能《あた》わなんだ」と嘲《あざけ》った。二月、怒るまい事か三月から初め三日を借り、自分に残った末の三日と併《あわ》せて六日間強く霜を降らせてことごとくその綿羊を殺し、老女をして次団太踏ましめた。仕方がないから牝牛を買って三月末三日を余すまで無事に飼ったが、前にも懲りず三月も済んだから畏《おそ》るるに足らぬと嘲った。三月、また怒って四月からその初め四日を借り、自分の終り三日と合せて一週間の大霜を降らせ草を枯らししまったので、老女また牝牛を亡くしたそうだ。
 スペインでも三月末の数日は風雨|太《いた》く起るが恒《つね》だ。伝えて言う、かつて牧羊夫が三月に三月中天気を善くしてくれたら子羊一疋進ぜようと誓うた。かくて気候至って穏やかに、三日|経《た》たば四月になるという時、三月、牧羊夫に子羊を求むると、たちまち吝《しわ》くなって与えず。三月怒って羊は三月末より四月初めへ掛けて子を生む大切の時節と気が付かぬかと言い放ち、自分の終り三日と、四月より借り入れた三日と、六日の間寒風大雨を起して、すべての羊もちょうど生まれた羊児も鏖《みなごろ》しにしたと。
 一九〇三年板アボットの『マセドニア民俗記』に言う。カヴァラ町の東の浜を少し離れて色殊に白き処あり、黄を帯びた細い砂で、もと塩池の底だったが、日光に水を乾《ほ》し尽されてかくなったらしい。昔美なる白綿羊を多く持った牧夫あり、何か仔細《しさい》あってその羊一疋を神に牲《にえ》すべしと誓いながら然《しか》せず、神これを嗔《いか》って大波を起し牧夫も羊も捲《ま》き込んでしまった。爾来《じらい》そこ常に白く、かの羊群は羊毛様の白き小波と化《な》って今も現わる。羊波《プロパタ》と名づくと。これに限らず曠野に無数の羊が草を食いながら起伏進退するを遠望すると、糞蛆の群行するにも似れば、それよりも一層よく海上の白波に似居る。近頃何とかいう外人が海を洋というたり、水盛んなる貌を洋々といったりする洋の字は、件《くだん》の理由で羊と水の二字より合成さると釈《と》いたはもっともらしく聞える。しかし王荊公が波はすなわち水の皮と牽強《こじつけ》た時、東坡がしからば滑とは水の骨でござるかと遣《や》り込めた例もあれば、字説|毎《つね》に輒《たやす》く信ずべきにあらずだ。
『春秋繁露《しゅんじゅうはんろ》』におよそ卿に贄《にえ》とるに羔《こひつじ》を用ゆ。羔、角あれども用いず、仁を好む者のごとし。これを執《とら》うれども鳴かず、これを殺せども号《さけ》ばず、義に死する者に類す。羔、その母の乳を飲むに必ず跪《ひざまず》く。礼を知る者に類す。故に羊の言たるなお祥のごとし。故に以て贄となすとあるなども本来を誤った説で、羊が生来吉祥の獣たるにあらず、もと羊を神に供えて善悪の兆を窺うたから祥の一字を羊示の二つから合成したのである。
 皆人の熟知する通り『孟子』に羊と牛とが死を怖るる表出の程度についての議論がある。馬琴の『烹雑記《にまぜのき》』の大意にいわく、牛の性はその死を聞く時は太《いた》く怖る。また羊の性はその死を聞きても敢《あ》えて怖れぬという宋の王逵が明文あり。『蠡海集《れいかいしゅう》』にいう。牛と羊と共に丑未の位におれり、牛の色は蒼《あお》く、雑色ありといえども蒼が多し、春陽の生気に近きが故に死を聞く時はすなわち※[#「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2−88−48]※[#「角+束」、第4水準2−88−45]《こくそく》す。羊の色は白く、雑色ありといえども白が多し、秋陰の殺気に近きが故に死を聞く時はすなわち懼《おそ》れず。およそ草木|牛※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《ぎゅうたん》を経るの余は必ず茂る、羊※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]を経るの余は必ず悴槁《かれ》る。諺《ことわざ》にこれあり曰く、牛食は澆《そそ》ぐがごとく羊食は焼くがごとし。これけだし生殺の気しかるを致せり、この説『孟子』の一章を註すべし。『孟子』の梁恵王篇に斉宣王羊をもて牛に易《か》えよと言いし段を按ずるに王の意小をもて大に易ゆるにあらず、また牛を見ていまだ羊を見ざる故にあらず、牛は死を聞いて太《いた》く懼るがために忍びず、故にいうその※[#「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2−88−48]※[#「角+束」、第4水準2−88−45]として罪なくして死地に就《つ》くがごときに忍びず、故に羊を以てこれに易ゆるなりと。これ羊は死を聞いて懼れざるものなれば牛に易えよといいしなり。もししからずば豕《いのこ》もて牛に易ゆとも妨げなけん、さはれ孟子は牛と羊の性を説かず。ただいう〈牛を見ていまだ羊を見ざるなり、君子の禽獣におけるや、その生を見ればその死を見るに忍びず、その声を聞けばその肉を食うに忍びず、ここを以て君子は庖厨を遠ざくなり〉。これ仁者の言、いわゆるその君をして堯舜になす者なり、嗚呼《おこ》なる所為なれど童蒙のために註しつ(以上馬琴の説)。志村知孝これを駁《ばく》して曰く、この説童蒙のために注しつといえど奇を好める説なり、いわゆる宣王の〈羊を以て牛に易う〉といいしは孟子のいわゆる〈小を以て大に易え、牛を見て羊を見ず〉といえる意にして、牛の性は死を聞いて太《いた》く怖るるがために殺すに忍びず、羊の性は死を聞いて懼れざるものなれば牛に易えよといいしにはあるべからず。〈王もしその罪なくして死地に就くを隠《いた》まばすなわち牛羊何ぞ択ばん〉といえるにてその意明らけし。宣王もし牛は死を恐れ、羊は死を喜ぶ故に易えよと言われしならば、その由を説かるべきにその説なきをかく言わば童蒙をしてかえって迷いを生ぜしむべきにやと(『古今要覧稿』五三一巻末)。
 仏経に人間が無常を眼前に控えながら何とも思わぬを、牛が朋輩の殺さるるを見ながら平気で遊戯するに比しあれど、ロメーンズの『動物智慧編《アニマル・インテリゼンス》』に牛が屠場に入りて、他の牛の殺され剥《は》がるる次第を目撃し、仔細を理解して恐懼《きょうく》し、同感する状《さま》著しく、ほとんど人と異ならざる心性あるを示す由を記し、ただし牛に随って感じに多少鋭鈍の差があると注した。予在外中しばしば屠場近く住み、多くの牛が一列に歩んで殺されに往くとて交互哀鳴するを窓下に見聞して、転《うた》た惨傷《さんしょう》に勝《た》えなんだ。また山羊は知らず、綿羊が殺され割《さ》かるるを毎度見たが、一声を発せず、さしたる顛倒騒ぎもせず、こんな静かな往生はないと感じた。『経律異相《きょうりついそう》』四九に羊鳴地獄の受罪衆生は、苦痛身を切り声を挙げんとしても舌|能《よ》く転ぜず、直ちに羊鳴のごとしと見え、ラッツェルの『人類史』にアフリカのズールー人新たに巫《ふ》となる者、牛や山羊その他諸獣を殺せど、綿羊は殺されても叫ばぬ故、殺さぬと出《い》づ。
 かく攷《かんが》えるとどうも馬琴の説が当り居るようだ。すなわち斉の宣王が堂上に坐すと牛を率《ひ》いて過ぐる者あり。王問うてその鐘に血を塗るため殺されに之《ゆ》くを知り、これを舎《ゆる》せ、われその罪なくして慄《おのの》きながら死地に就くに忍びずと言う。牛を牽く者、しからば鐘に血を塗るを廃しましょうかと問うと、それは廃すべからず、羊を以て牛に易えよと言った。王実は牛が太《いた》く死を懼れ羊は殺さるるも鳴かぬ故、小の虫を殺して大の虫を活《い》かせてふ意でかく言ったのだが、国人は皆王が高価な牛を悋《おし》んで、廉価の羊と易えよと言ったと噂した。それについて孟子が種々と王を追窮したので、売詞《うりことば》に買詞《かいことば》、王も種々|弁疏《べんそ》し牛は死を恐れ、羊は鳴かずに殺さるる由を説くべく気付かなかったのだ。さて孟子は王のために〈牛を見ていまだ羊を見ざるなり〉云々と弁護するに及び、王悦んで、〈詩にいわく他人心あり、予これを忖度《そんたく》す〉とは夫子《ふうし》の謂《いい》なり、我は自分で行《や》っておきながら、何の訳とも分らなんだに夫子よくこれを言い中《あ》てたと讃《ほ》めたので、食肉を常習とする支那で羊は牛ほど死を懼れぬ位の事は人々幼時より余りに知り切りいて、かえってその由の即答が王の心に泛《うか》み出なんだのだ。
 この鐘に血塗るという事昔は支那で畜類のみか、時としては人をも牲殺してそ
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