テリゼンス》』に牛が屠場に入りて、他の牛の殺され剥《は》がるる次第を目撃し、仔細を理解して恐懼《きょうく》し、同感する状《さま》著しく、ほとんど人と異ならざる心性あるを示す由を記し、ただし牛に随って感じに多少鋭鈍の差があると注した。予在外中しばしば屠場近く住み、多くの牛が一列に歩んで殺されに往くとて交互哀鳴するを窓下に見聞して、転《うた》た惨傷《さんしょう》に勝《た》えなんだ。また山羊は知らず、綿羊が殺され割《さ》かるるを毎度見たが、一声を発せず、さしたる顛倒騒ぎもせず、こんな静かな往生はないと感じた。『経律異相《きょうりついそう》』四九に羊鳴地獄の受罪衆生は、苦痛身を切り声を挙げんとしても舌|能《よ》く転ぜず、直ちに羊鳴のごとしと見え、ラッツェルの『人類史』にアフリカのズールー人新たに巫《ふ》となる者、牛や山羊その他諸獣を殺せど、綿羊は殺されても叫ばぬ故、殺さぬと出《い》づ。
かく攷《かんが》えるとどうも馬琴の説が当り居るようだ。すなわち斉の宣王が堂上に坐すと牛を率《ひ》いて過ぐる者あり。王問うてその鐘に血を塗るため殺されに之《ゆ》くを知り、これを舎《ゆる》せ、われその罪なくして慄《おのの》きながら死地に就くに忍びずと言う。牛を牽く者、しからば鐘に血を塗るを廃しましょうかと問うと、それは廃すべからず、羊を以て牛に易えよと言った。王実は牛が太《いた》く死を懼れ羊は殺さるるも鳴かぬ故、小の虫を殺して大の虫を活《い》かせてふ意でかく言ったのだが、国人は皆王が高価な牛を悋《おし》んで、廉価の羊と易えよと言ったと噂した。それについて孟子が種々と王を追窮したので、売詞《うりことば》に買詞《かいことば》、王も種々|弁疏《べんそ》し牛は死を恐れ、羊は鳴かずに殺さるる由を説くべく気付かなかったのだ。さて孟子は王のために〈牛を見ていまだ羊を見ざるなり〉云々と弁護するに及び、王悦んで、〈詩にいわく他人心あり、予これを忖度《そんたく》す〉とは夫子《ふうし》の謂《いい》なり、我は自分で行《や》っておきながら、何の訳とも分らなんだに夫子よくこれを言い中《あ》てたと讃《ほ》めたので、食肉を常習とする支那で羊は牛ほど死を懼れぬ位の事は人々幼時より余りに知り切りいて、かえってその由の即答が王の心に泛《うか》み出なんだのだ。
この鐘に血塗るという事昔は支那で畜類のみか、時としては人をも牲殺してその血を新たに鋳た鐘に塗り、殺された者の魂が留まり著いて大きに鳴るように挙行されたのだ。その証拠は『説苑《ぜいえん》』十二に秦と楚と軍《いくさ》せんとした時、秦王人を楚に遣《つか》わす、楚王人をしてこれに汝《なんじ》来る前に卜《うらな》いしかと問わしむると、いかにも卜うたが吉とあったと答えた。楚人その卜いは大間違いだ、楚王は汝を殺して鐘に血塗らんとするに何の吉もないものだと威《おど》した。秦の使者曰く、軍が始まりそうだからわが王我をして様子を窺《うかが》わしむるに、我殺されて還《かえ》らずば、わが王さてはいよいよ戦争と警戒準備怠らぬはずだからわがいわゆる吉だ。そのうえ死者もし知る事なくんばその血を鐘に塗りて何の益あろうか、万一死者にして知るあらばわれは敵を相《たす》くるはずがない。楚の鐘鼓をして声を出さざらしめんに楚の士卒を整え軍立《いくさだて》をする事がなるまい。それ人の使を殺し人の謀《はかりごと》を絶つは古の通議にあらざるなり。子大夫試みにこれを熟計せよと強く出たので、楚王これを赦《ゆる》し還らせたとある。
このついでにいう、『日本霊異記』や『本朝文粋』に景戒《きょうかい》や※[#「大/周」、第3水準1−15−73]然《ちょうねん》が自ら羊僧と名のった由見ゆ。『塵添※[#「土へん+蓋」、第3水準1−15−65]嚢鈔《じんてんあいのうしょう》』十三に羊僧とは口に法を説かざるをいう。羊は卑しき獣とす、獣中に羊のごとく僧中に卑しという心なりとあるは牽強で、『古今要覧稿』五三〇には、〈『仏説大方広十輪経』いわく犯不犯、軽重を知らず、微細罪懺悔すべきを知らず、愚痴無智にして善智識に近からず、深義のこれ善なるか善にあらざるか諮問する能わず、かくのごとき等の相、まさに唖羊僧《あようそう》たるべし〉とあって、羊僧は唖羊僧の略とまでは判るが、何故かかる僧を唖羊僧というかが知れぬ。熊楠、『大智度論』巻三を見るに僧を羞僧、無羞僧、唖羊僧、実僧の四種に分つ。破戒せずといえども〈鈍根無慧、好醜を別たず、軽重を知らず、有罪無罪を知らず、もし僧事あるに、二人ともに諍《あらそ》うに断決する能わず、黙然として言なく〉、譬《たと》えば、白羊、人の殺すに至っても声を作《な》す能わざるがごとし、これを唖羊僧と名づくとある。これで羊僧てふ語も綿羊が声立てずに殺さるるに基づくと知った。泰西の十二宮のうち牡
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング