綿羊宮《アリエス》を古く白羊宮と漢訳しあるので白羊とは綿羊と判る。
 西アフリカのアシャンチー人伝うるは、昔上帝|人間《にんかん》に住み面《まのあた》り談《はな》したから人々幸福だった。例せば小児が薯蕷《やまいも》を焼くとき共に食うべき肴《さかな》を望まば、上帝われに魚を与えよと唱えて棒を空中に抛《ほう》ればたちまち魚を下さった。しかるに世間はかく安楽でいつまでも続かず、一日婦女どもが食物を摺《す》り調える処へ上帝来り立ち留まって観《み》るを五月蠅《うるさ》がり、あっちへ行けといえど去らず、婦女ども怒って擂木《すりこぎ》で上帝を打ったから、上帝倉皇天に登り復《また》と地上へ降《くだ》らず、世は永く精物《フィチシュ》に司配さる。因って今も人々戻らぬ昔を追懐して、あの時婆どもが上帝を打たなんだらどんなにわれわれは幸福だろうと嘆息する。ただし上帝は随分人思いの親切者で天に引き上げた後《のち》山羊を降して告げしめたは、これから死というもの来て汝らを取り殺すが汝ら全く亡くなるでなく天に来りてわれとともに住むのだと。山羊この報を持って町へ来る途上|好《よ》き草を見て食いに掛かる。上帝これを見て綿羊を遣わし、前同様に人に告げしめたところ、綿羊誤って上帝の御意に汝ら死なばそれ切りとあると告げた。跡へ来った山羊が上帝の御意に汝ら死するに決まって居るが、それ切り亡くなるでない、天へ上って上帝近く住むはずとあると告げた。その時人々山羊に対《むか》い、それは神勅でない、綿羊の伝命が上帝の御意と信ずると述べたから、人間が死亡し始めたそうだ。同じアシャンチー人の中にも異説ありて最初不死の報を承ったは綿羊だが、途上で道草を食う間に山羊がまず人間に死の命を伝え、それを何事とも知らず無性に嬉《うれ》しがって御受けした此方《このかた》人は皆死ぬという由(ベレゴーの『シェー・レー・アシャンチー』一九〇六年板一九八頁)。
『太平記』に唇亡びて歯また寒くは分って居るが、その次に魯酒薄うして邯鄲《かんたん》囲まる、これには念の入った訳がある。楚の宣王諸侯を朝会した時、魯の恭公|後《おく》れ至り進上した酒が薄かったから宣王怒った。恭公我は周公の胤《いん》にして勳王室にあり、楚ごとき劣等の諸侯に酒を送るさえ礼に叶《かな》わぬに、その薄きを責むるも甚だしと憤って辞せずに還った。宣王すなわち斉とともに魯を攻めた。梁の恵王常に趙を撃たんとしたが楚を畏れて手控えいた、今楚が魯を事として他を顧みる暇《いとま》なきに乗じ兵を発して趙の都邯鄲を囲んだというので、セルヴィアの狂漢が奮うて日本に成金が輩出したごとく、事と事が間接に相因るを意味す。インドにも右様の譬えがある。『雑宝蔵経』八に下女が麦と豆を与《あずか》り居ると、主人の家の牡羊が毎度盗み食い減らすから主人に疑わるるを憤り、羊を見る度《たび》杖で打ち懲らす。羊も下女を悪《にく》みその都度|觝触《つきかか》る。一日下女が火を取りおり、杖を持たぬを見て羊直ちに来り襲う。下女|詮方《せんかた》なさにその火を羊の脊に置くと羊熱くなりて狂い廻り、村に火を付け人多く殺し山へ延焼して山中の猴《さる》五百疋ことごとく死んだ。諸天これを見て偈《げ》を説いていわく、〈瞋恚《しんい》闘諍間、中において止むるべからず、羝羊《ていよう》婢とともに闘い、村人|※[#「けものへん+彌」、第3水準1−87−82]猴《びこう》死す〉と。『菩薩本行経』には、一婦人|※[#「麩」の「夫」に代えて「少」、第4水準2−94−55]《こがし》を作る処へ羊来り盗むを、火を掻《か》く杖に火の著いたまま取り上げて打つと羊毛に燃え付いた。そのまま羊が象|厩《べや》に身を摺《す》り付くると、いよいよ火事となりて象も猴も焼け死んだとある。象厩に猴を畜《か》えば象を息災にすとシャムでも信ずる由、クローフォールドの『暹羅《シャム》使記』に見ゆ。
『説苑』七に楊朱《ようしゅ》が梁王に見《まみ》えて、天下を治むる事|諸《これ》を掌《たなごころ》に運《めぐ》らすごとくすべしという。梁王曰く、先生、一妻一妾ありて治むる能わず、三畝の園すら芸《くさき》る能わざるに、さように容易《たやす》く天下を治め得んやと。楊朱曰く、君かの羊を見ずや、百羊にして群るれば五尺の童子一人杖を荷《にの》うてこれを東西思いのままに追い得るがごとし、堯をして一羊を牽《ひ》き舜をして杖を荷うてこれを追わしめば、なかなか思いのままにならぬ、すなわち乱の始めだ。大を治めんとする者は小を治めず、大功を成す者は小苛《しょうか》せずと。
 末吉安恭氏来示に、琉球人は山羊を温柔な獣とせず、執拗|剛戻《ごうれい》な物とす。縄にて牽き行く時その歩を止めて行かぬ事あり、その時縄を後に牽かば前に出づるも前に牽かば退くのみなり、故に山羊は天《あま》の
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
南方 熊楠 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング