、六日の間寒風大雨を起して、すべての羊もちょうど生まれた羊児も鏖《みなごろ》しにしたと。
 一九〇三年板アボットの『マセドニア民俗記』に言う。カヴァラ町の東の浜を少し離れて色殊に白き処あり、黄を帯びた細い砂で、もと塩池の底だったが、日光に水を乾《ほ》し尽されてかくなったらしい。昔美なる白綿羊を多く持った牧夫あり、何か仔細《しさい》あってその羊一疋を神に牲《にえ》すべしと誓いながら然《しか》せず、神これを嗔《いか》って大波を起し牧夫も羊も捲《ま》き込んでしまった。爾来《じらい》そこ常に白く、かの羊群は羊毛様の白き小波と化《な》って今も現わる。羊波《プロパタ》と名づくと。これに限らず曠野に無数の羊が草を食いながら起伏進退するを遠望すると、糞蛆の群行するにも似れば、それよりも一層よく海上の白波に似居る。近頃何とかいう外人が海を洋というたり、水盛んなる貌を洋々といったりする洋の字は、件《くだん》の理由で羊と水の二字より合成さると釈《と》いたはもっともらしく聞える。しかし王荊公が波はすなわち水の皮と牽強《こじつけ》た時、東坡がしからば滑とは水の骨でござるかと遣《や》り込めた例もあれば、字説|毎《つね》に輒《たやす》く信ずべきにあらずだ。
『春秋繁露《しゅんじゅうはんろ》』におよそ卿に贄《にえ》とるに羔《こひつじ》を用ゆ。羔、角あれども用いず、仁を好む者のごとし。これを執《とら》うれども鳴かず、これを殺せども号《さけ》ばず、義に死する者に類す。羔、その母の乳を飲むに必ず跪《ひざまず》く。礼を知る者に類す。故に羊の言たるなお祥のごとし。故に以て贄となすとあるなども本来を誤った説で、羊が生来吉祥の獣たるにあらず、もと羊を神に供えて善悪の兆を窺うたから祥の一字を羊示の二つから合成したのである。
 皆人の熟知する通り『孟子』に羊と牛とが死を怖るる表出の程度についての議論がある。馬琴の『烹雑記《にまぜのき》』の大意にいわく、牛の性はその死を聞く時は太《いた》く怖る。また羊の性はその死を聞きても敢《あ》えて怖れぬという宋の王逵が明文あり。『蠡海集《れいかいしゅう》』にいう。牛と羊と共に丑未の位におれり、牛の色は蒼《あお》く、雑色ありといえども蒼が多し、春陽の生気に近きが故に死を聞く時はすなわち※[#「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2−88−48]※[#「角+束」、第4水準2−88−45]《こくそく》す。羊の色は白く、雑色ありといえども白が多し、秋陰の殺気に近きが故に死を聞く時はすなわち懼《おそ》れず。およそ草木|牛※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]《ぎゅうたん》を経るの余は必ず茂る、羊※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]を経るの余は必ず悴槁《かれ》る。諺《ことわざ》にこれあり曰く、牛食は澆《そそ》ぐがごとく羊食は焼くがごとし。これけだし生殺の気しかるを致せり、この説『孟子』の一章を註すべし。『孟子』の梁恵王篇に斉宣王羊をもて牛に易《か》えよと言いし段を按ずるに王の意小をもて大に易ゆるにあらず、また牛を見ていまだ羊を見ざる故にあらず、牛は死を聞いて太《いた》く懼るがために忍びず、故にいうその※[#「轂」の「車」に代えて「角」、第4水準2−88−48]※[#「角+束」、第4水準2−88−45]として罪なくして死地に就《つ》くがごときに忍びず、故に羊を以てこれに易ゆるなりと。これ羊は死を聞いて懼れざるものなれば牛に易えよといいしなり。もししからずば豕《いのこ》もて牛に易ゆとも妨げなけん、さはれ孟子は牛と羊の性を説かず。ただいう〈牛を見ていまだ羊を見ざるなり、君子の禽獣におけるや、その生を見ればその死を見るに忍びず、その声を聞けばその肉を食うに忍びず、ここを以て君子は庖厨を遠ざくなり〉。これ仁者の言、いわゆるその君をして堯舜になす者なり、嗚呼《おこ》なる所為なれど童蒙のために註しつ(以上馬琴の説)。志村知孝これを駁《ばく》して曰く、この説童蒙のために注しつといえど奇を好める説なり、いわゆる宣王の〈羊を以て牛に易う〉といいしは孟子のいわゆる〈小を以て大に易え、牛を見て羊を見ず〉といえる意にして、牛の性は死を聞いて太《いた》く怖るるがために殺すに忍びず、羊の性は死を聞いて懼れざるものなれば牛に易えよといいしにはあるべからず。〈王もしその罪なくして死地に就くを隠《いた》まばすなわち牛羊何ぞ択ばん〉といえるにてその意明らけし。宣王もし牛は死を恐れ、羊は死を喜ぶ故に易えよと言われしならば、その由を説かるべきにその説なきをかく言わば童蒙をしてかえって迷いを生ぜしむべきにやと(『古今要覧稿』五三一巻末)。
 仏経に人間が無常を眼前に控えながら何とも思わぬを、牛が朋輩の殺さるるを見ながら平気で遊戯するに比しあれど、ロメーンズの『動物智慧編《アニマル・イン
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