たいらのとももり》に進ぜしを河越黒、余りに黒い故|磨墨《するすみ》、馬をも人をも吃《く》いければ生※[#「口+妾」、第4水準2−4−1]《いけずき》など、多く毛色産地気質等に拠って名づけたので、津国の浪速《なにわ》の事か法ならぬ。同じのり物ながら妓女と同名の馬ありし例も知らぬ。ただし『遊女記』に小馬てふ妓名を出す。
 インドで顕著なは※[#「牛+建」、第3水準1−87−71]陟馬《カンタテム》王で悉達《しった》太子これに乗って宮を脱れ出た。前生かつて天帝釈だった由(『六度集経』八)。欧州で馬に名づくる事よほど古く、ジケアてふ牝馬アリストテレスに録され、アレキサンダー王の乗馬ブケファルスについては伝説の項に述べた。古ローマおよびその領地の上流の家では厩の間ごとに住みいる馬の名を掲げその札今に残るあり、女郎部屋の源氏名札も同じく残る。このついでに言う、英船長サリスの『平戸日記』慶長十八年(一六一三)の条に、六月二十一日平戸王女優数輩を従え英船に入った由記し、彼らは島より島へ渡りて演芸し外題の異なるに従い衣裳を替える。趣向は専ら軍《いくさ》と恋なり、みな一主人に隷《したが》ってその営利のため
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