い水多きように見せて敵を欺き囲《かこい》を解いて去らしめた。また応永二十二年、北畠満雅|阿射賀《あさか》城に拠りしを足利方の大将土岐持益囲んで水の手を留めた節も、満雅計りて白米を馬に掛けて沢山な水で洗うと見せ敵を欺き果《おお》せた。因って右の二城とも白米城と俗称す(『斐太後風土記』十一、『三国地誌』三九)。而《しか》してこの通りの口碑を持つ古城跡が諸国に多くある。土佐の寺石正路君に教えられて『常山紀談』を見ると、柴田勝家居城の水の手を佐々木勢に断たれた時、佐々木平井甚助を城に入れてその容易を観せしめた。平井勝家に会うて手水《ちょうず》を請うに、缸《かめ》に水満ちて小姓二人|舁《かつ》ぎ出し、平井洗手済んで残れる水を小姓庭へ棄てたので平井還って城内水多しと告げ、一同疑惑するところへ勝家撃ち出で勝軍《かちいくさ》したと記す。城守には水が一番大切故、ない水をあるように見せる詐略は大いに研究されたるべくしたがって望遠鏡等なき世には白米で馬洗うて騙された実例も多かったろう。上に挙げた二雑誌の拙文には書かなんだが、『大清一統志《だいしんいっとうし》』九七に、山東省の米山は相伝う斉|桓公《かんこう》
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