貴く王これを崇《あが》むるはもっともだが、かの木菟入《ずくにゅう》こそ怪《け》しからぬ、あんなありふれた坊主を一億金代りに受け取ったは大勘違いでなかろうかと。王はもとよりかの比丘が無類の偉人で、弁才能く人間外の物をすら感ぜしむるを知ったから、諸群惑をいかにもして悟らせようと考えて、七疋の馬を五日間餓えしめ、六日目にあまねく内外の沙門と異学の徒を集め、かの比丘を請《しょう》じて説法せしめると、一同開悟せぬはなかった。さて説法所の前に七つの馬を繋ぎ、馬は浮流草を嗜《この》めばとて浮流草を与えしも、馬ただ涙を垂れて法を聴くのみ、少しも草を食う意なき様子、天下すなわちその不世出の比丘たるを知り、馬がその恩を解したから馬鳴《めみょう》菩薩と号《な》づけ、北天竺に仏法を弘めたと。浮流草は詳らかならぬが水流に浮かみ、特に馬が嗜み食う藻などであろう。ホンダワラ一名神馬草、神功《じんぐう》皇后征韓の船中|秣《まぐさ》に事欠き、この海藻を採って馬に飼うた故名づくと(『下学集』下)。『能登名跡志』またこの藻もて義経が馬に飼うたてふ、俚伝を載す。
 タヴェルニエーの『波斯《ペルシア》紀行』に、バルサラに草乏しきより、魚の頭と波頭棗《デート》の核を牛に飼うといい、マルコ・ポロの書には、アラビヤのユシェル国は世界中もっとも乾いた地で草木少しも生ぜず、しかるに三、四、五月の間、莫大に捕《と》れる至って小さい魚あり、これを乾し蓄えて年中|畜《けだもの》の食とすと見ゆ。それから推すと神馬草の伝説も啌《うそ》でなかろう。マルコ・ポロまたいわく、マーバールでは肉と煮米《にこめ》を炊《かし》いで食すから、馬が皆絶える、またいかな好《よ》い馬を将《も》ち来るも産まるる子は詰まらぬものばかり、さてこの地本来馬を産せず、アラビヤ辺の商人、毎年数千の馬をこの国へ輸入し法外に贏《もう》ける、しかるに一年|経《た》つ間に、多くは死んで百疋も残らず、これこの国人馬を養う方を知らず、外商これを奇貨とし、馬医この国に入るを禁ずるによると。これら外商はインドへ馬を輸《おく》って莫大に贏けたが、旨《うま》い事ばかりはないもので、随分危ない目にも逢った。例せばタナの王は海賊と棒組《ぼうぐみ》で、インド往きの船に多少の馬を積まぬはないから、馬さえ己に献ずれば他の積み荷は一切汝らに遣ると、結構な仰せに、海賊ども雀躍《こおどり》して外船を侵掠した。
 ギリシアのジオメデス王、その馬に人肉を飼ったが、ヘラクレス奮闘して王を殺し、その尸《しかばね》を馬に啖《く》わしむると温柔《おとな》しくなったという。わが邦にも『小栗判官《おぐりはんがん》』の戯曲《じょうるり》(『新群書類従』五)に、横山家の悍馬《かんば》鬼鹿毛《おにかげ》は、毎《いつ》も人を秣《まぐさ》とし食うたとある。前年『早稲田文学』に、坪内博士舞の本や、古戯曲の百合若《ゆりわか》の譚《ものがたり》は、南蛮僧などが、古ギリシアのウリッセスの譚を将来したのを、日本の事のように作り替えたてふ論を出されたと聞いたが、いまだに手に入らぬからその論を拝読せぬ。しかし自分で調べ見ると、どうも博士の見は中《あた》りいると信ずる。
 さてそのついでに調べると、小栗の譚は日本の史実を本としたものの、西暦二世紀に、チミジア国(今のアルゼリア)の人アプレイウスが書いた、『金驢篇《デ・アシノアウレオ》』の処々を摸《うつ》し入れた跡が少なくない。例せば、サイケがクピッドに別れて昼夜尋ね廻るに基づいて、照天姫《てるてひめ》が判官を尋ぬる事を作り、ヴィナスがサイケに七種の穀物を混ぜるを、短時間に選別《えりわけ》しむるに倣って、万屋《よろずや》の長が、姫に七所の釜の火を断えず焚《た》かせ、遠方より七桶の水を汲ませ、七種の買物を調えしむと筆し、上述ジオメデスの人食馬を人秣食う鬼鹿毛とし、壮士トレポレムス賊と偽って賊※[#「穴かんむり/果」、第3水準1−89−51]《ぞくか》に入り、そこに囚われいる情女カリテを娼妓に売れと勧むると、照天娼家に事《つか》うると、またトが毒酒で群賊を眠らすのと、さて女を驢に載せて脱れ遂ぐるのとが、偶然また反対ながら、横山が小栗の郎従を酔殺すのと、判官鬼鹿毛に乗って遁げおおせるのとに近似しいる。もっとも小栗の話の大要は、『鎌倉大草紙』に載せた事実に本《もと》づき、むやみに改むる訳にも往かぬところから、『金驢篇』の模倣はほんのそこここに止まる。それから俗に小栗の碁盤の曲乗りなど伝うるに似た事は、前項でインドの智馬が蓮花を蹈んで行《ある》いたのと、広嗣の駿馬が四足を合せて、一の杭《くい》の頂に立ったのとだ。躑躅《つつじ》と同科のアセミまたアセボを『万葉集』に馬酔木《あせみ》と書き、馬その葉を食えば酔死すという。「取つなげ玉田横野の放れ駒、つゝじの下に馬酔
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